百人一首 90♪
2013-04-08(Mon)
み をじま そで
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
いろ
ぬれにぞぬれし 色はかはらず (殷富門院大輔 いんぷもんいんのたいふ)
『 読み方 』
ミセバヤナ オジマノアマノ ソデダニモ
ヌレニゾヌレシ イロワカワラズ
『 現代語訳 』
「(血の涙で色の変わった私の袖を)お見せしたいものですよ。あの雄島の漁師の袖でさえ、海水にひどくぬれながらも、色が変わることはありませんのに。」
※見せばやな・・・見せたいものですよ。
※雄島・・・宮城県、松島の島の中の1つ。
※あま・・・漁師。
※袖だにも・・・袖でさえも。
※色はかはらず・・・漁師の袖の色は変わらない。裏返すと、私の袖は色が変わっているということになる。色が変わるのは「血の涙(極度の悲しみで流す涙)」のせいである。
歌合で詠まれた恋の歌。
なんの歌合で詠まれた歌かは、はっきりわかっていません。
この歌には、本歌取り(ほんかどり)の技法が用いられています。
本歌取りというのは、有名な古歌の表現を取り入れて、新しい歌を作る技法のことをいいます。
この歌の本歌は、『後拾遺和歌集』(恋四)に入っている源重之の歌。
本歌を知らないと、殷富門院大輔の歌がわからないので、ここで紹介しておきましょう。
松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか
(松島の雄島の磯で漁をする漁師の袖は、私の涙の袖と同じように海水でぬれたことでした。)
「漁師の袖が海水でぬれた、それは自分の袖が涙でぬれるのと同じだった」というのが、この歌の内容です。
つまりは、「それほど自分は苦しい恋に泣いている」というわけですね。
『 作者について 』
殷富門院大輔 (生没年未詳)
天承元年(1131年)ごろに生まれ、正治2年(1200年)ごろ没したか。
従五位下藤原信成の娘。
殷富門院(後白河院第一皇女亮子内親王)の女房。
当時の歌合に多く出詠し、藤原定家・家隆とも親交があった。
家集に『殷富門院大輔集』。
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
いろ
ぬれにぞぬれし 色はかはらず (殷富門院大輔 いんぷもんいんのたいふ)
『 読み方 』
ミセバヤナ オジマノアマノ ソデダニモ
ヌレニゾヌレシ イロワカワラズ
『 現代語訳 』
「(血の涙で色の変わった私の袖を)お見せしたいものですよ。あの雄島の漁師の袖でさえ、海水にひどくぬれながらも、色が変わることはありませんのに。」
※見せばやな・・・見せたいものですよ。
※雄島・・・宮城県、松島の島の中の1つ。
※あま・・・漁師。
※袖だにも・・・袖でさえも。
※色はかはらず・・・漁師の袖の色は変わらない。裏返すと、私の袖は色が変わっているということになる。色が変わるのは「血の涙(極度の悲しみで流す涙)」のせいである。
歌合で詠まれた恋の歌。
なんの歌合で詠まれた歌かは、はっきりわかっていません。
この歌には、本歌取り(ほんかどり)の技法が用いられています。
本歌取りというのは、有名な古歌の表現を取り入れて、新しい歌を作る技法のことをいいます。
この歌の本歌は、『後拾遺和歌集』(恋四)に入っている源重之の歌。
本歌を知らないと、殷富門院大輔の歌がわからないので、ここで紹介しておきましょう。
松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか
(松島の雄島の磯で漁をする漁師の袖は、私の涙の袖と同じように海水でぬれたことでした。)
「漁師の袖が海水でぬれた、それは自分の袖が涙でぬれるのと同じだった」というのが、この歌の内容です。
つまりは、「それほど自分は苦しい恋に泣いている」というわけですね。
『 作者について 』
殷富門院大輔 (生没年未詳)
天承元年(1131年)ごろに生まれ、正治2年(1200年)ごろ没したか。
従五位下藤原信成の娘。
殷富門院(後白河院第一皇女亮子内親王)の女房。
当時の歌合に多く出詠し、藤原定家・家隆とも親交があった。
家集に『殷富門院大輔集』。
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