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百人一首 60♪
おほえやま  の  みち  とほ
大江山 いく野の道の 遠ければ
            あま はしだて
まだふみもみず 天の橋立 (小式部内侍 こしきぶのないし)



『 読み方 』
オーエヤマ イクノノミチノ トーケレバ 
マダフミモミズ アマノハシダテ

『 現代語訳 』
「大江山をこえ生野を通って行く道が遠いので、まだ天の橋立を踏んでみたこともありませんし、母からの文も見ていません。」

※大江山・・・山城(京都市域)と丹波(亀岡市域)の境にある老の坂峠と見る説が有力。この峠道は丹波に下るときの交通の要所で、古典では「大江山」または「大枝山」と記された。丹後(京都府加佐郡大江町)にある大江山ではないとする人が多い。
※いく野・・・地名「生野」に「行く」を掛ける。生野は丹波国天田郡(現福知山市)の地名。都を出ると「大江山」から「生野」を通って「天の橋立」に至る。
※ふみ・・・「踏み」と「文」とを掛ける。「踏み」は「橋」の縁語。「文」は手紙の意。
※天の橋立・・・丹後国与謝郡(京都府宮津市)にある。日本三景の1つ。

この歌には有名なエピソードがあります。

この歌の作者は小式部内侍。
和泉式部の娘で、美貌も歌才もお母さんゆずりの少女歌人でした。

丹後守となった夫(藤原保昌)に従って、和泉式部が丹後に下っているときのこと。
都で歌合が催されました。
小式部内侍も出場することになったのですが、以前から、世間には変な噂が流れていました。
小式部内侍の歌は、どうも母親が代作しているらしいぞ!

もしそれが本当なら、今度の歌合は大変なことになります。
何しろ、和泉式部は都を遠く離れた丹後国におり、そう簡単に連絡をとることなど出来ないのですから。
そのことに興味をもった中納言藤原定頼が宮中で小式部内侍のそばに来て言いました。
小式部内侍をからかうつもりです。
「歌はどうするつもり?丹後へはもう手紙を送ったの?返事はまだ?ふふふ・・・心配だろうね!」

小式部内侍はとっさに定頼を引き止めて歌を詠みかけました。
それがこの歌だとされています。

小式部内侍は20代半ばに若くして亡くなるまでの間に、何人もの貴公子と深い関係になり、父の違う子を何人か産んだが、生涯決まった人に妻にはならなかった。
小式部が亡くなった時に母親である和泉式部がこのような歌を詠んでいます。

とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり
肉親をこの世に残して娘は旅立ったが、あの世で一体誰のことを愛しく思っているのだろう。
やはり子供であろう。
私だって小式部が愛しいもの。

人の親のありようを詠んでいて、悲しい歌ですね。



『 作者について 』

小式部内侍 (1000?~25)

橘道貞と和泉式部の娘。
母と共に中宮彰子に出仕、母に対して小式部と呼ばれた。
多くの貴公子に愛されたが、25、6歳で病没。
母の和泉式部がその死をいたみ、多くの哀傷歌(あいしょうか)を家集に残している。
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