2013-04-16(Tue)
よ たみ
おほけなく うき世の民に おほふかな
た そま すみぞめ そで
わが立つ杣に 墨染の袖 (前大僧正慈円 さきのだいそうじょうじえん)
『 読み方 』
オオケナク ウキヨノタミニ オオーカナ
ワガタツソマニ スミゾメノソデ
『 現代語訳 』
「身の程にすぎたことながら、(僧侶として)私はこの世の民におおいかけることだ。比叡の杣山に住み、身にまとっているこの墨染めの袖を。」
※おほけなく・・・身分不相応に。
※うき世の民・・・この世に生きる人々。
※おほふかな・・・「墨染めの袖をおほふかな(墨染めの袖で庇護する)」の意。仏法によって人々を災禍(さいか)から守り、その安全を祈るということ。
※わが立つ杣・・・比叡山をさす。「杣」は「杣山(材木を切り出す山)」。杣山というのは、自然に木が生えた山ではなく、木を植えて育てた山をいう。
※墨染の袖・・・僧衣の袖。「墨」が「住み」との掛詞。
仏法の力で万民を救いたいという抱負を詠んだ歌。
慈円は11歳で出家しました。宗旨は天台宗です。
彼はのちに天台座主(てんだいざす/比叡山延暦寺の長の意)になるのですが、この歌はまだそこまで偉くなる前の、若い頃に詠んだ作だと考えられています。
天台宗の宗祖(しょうそ)は、伝教大師最澄(でんだいきょうだいしさいちょう)。
その最澄が、比叡山に根本中堂を建立したとき、
あのくたら さんみゃくさんぼだい みょうが
阿耨多羅 三藐三菩提の 仏たち わが立つ杣に 冥加あらせたまへ
(一切の真理を知る仏たちよ。私の入り立つこの杣山に、どうかご加護をお垂れ下さい。)
という歌を詠みました。(『新古今和歌集』・巻二十・釈教・一九二〇)。
これが、慈円の歌の本歌となっています。
「おほけなく・・・・」と始める謙虚な詠みぶりの中に、最澄の教えを受け継ぐ僧侶として、鎮護国家のために身を捧げなければいけないという使命感が、高々として感じられる秀作です。
『 作者について 』
前大僧正慈円 (1155~1225年)
関白藤原忠道の子。兼実の弟。
11歳で出家。建久3年(1192年)天台座主となる。
政変によって、生涯に四度、座主をつとめた。
家集に『拾玉集(しゅうぎょくしゅう)』。
また『愚管抄』は、仏教思想による傑作した史論書として知られる。
おほけなく うき世の民に おほふかな
た そま すみぞめ そで
わが立つ杣に 墨染の袖 (前大僧正慈円 さきのだいそうじょうじえん)
『 読み方 』
オオケナク ウキヨノタミニ オオーカナ
ワガタツソマニ スミゾメノソデ
『 現代語訳 』
「身の程にすぎたことながら、(僧侶として)私はこの世の民におおいかけることだ。比叡の杣山に住み、身にまとっているこの墨染めの袖を。」
※おほけなく・・・身分不相応に。
※うき世の民・・・この世に生きる人々。
※おほふかな・・・「墨染めの袖をおほふかな(墨染めの袖で庇護する)」の意。仏法によって人々を災禍(さいか)から守り、その安全を祈るということ。
※わが立つ杣・・・比叡山をさす。「杣」は「杣山(材木を切り出す山)」。杣山というのは、自然に木が生えた山ではなく、木を植えて育てた山をいう。
※墨染の袖・・・僧衣の袖。「墨」が「住み」との掛詞。
仏法の力で万民を救いたいという抱負を詠んだ歌。
慈円は11歳で出家しました。宗旨は天台宗です。
彼はのちに天台座主(てんだいざす/比叡山延暦寺の長の意)になるのですが、この歌はまだそこまで偉くなる前の、若い頃に詠んだ作だと考えられています。
天台宗の宗祖(しょうそ)は、伝教大師最澄(でんだいきょうだいしさいちょう)。
その最澄が、比叡山に根本中堂を建立したとき、
あのくたら さんみゃくさんぼだい みょうが
阿耨多羅 三藐三菩提の 仏たち わが立つ杣に 冥加あらせたまへ
(一切の真理を知る仏たちよ。私の入り立つこの杣山に、どうかご加護をお垂れ下さい。)
という歌を詠みました。(『新古今和歌集』・巻二十・釈教・一九二〇)。
これが、慈円の歌の本歌となっています。
「おほけなく・・・・」と始める謙虚な詠みぶりの中に、最澄の教えを受け継ぐ僧侶として、鎮護国家のために身を捧げなければいけないという使命感が、高々として感じられる秀作です。
『 作者について 』
前大僧正慈円 (1155~1225年)
関白藤原忠道の子。兼実の弟。
11歳で出家。建久3年(1192年)天台座主となる。
政変によって、生涯に四度、座主をつとめた。
家集に『拾玉集(しゅうぎょくしゅう)』。
また『愚管抄』は、仏教思想による傑作した史論書として知られる。
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