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2013/04
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百人一首100句目、達成致しました~♪
本日、百人一首が100句目まで達成致しました~♪
昨年の10月28日に第1句目を勉強してから半年間。
長いような短いような歳月でしたが、きっと私1人で勉強していたのではスグに挫折していたことと思います。
いつも一緒に勉強して下さった会社のTさんに感謝です。

Tさん、いつもありがとうございます。(^^)

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百人一首 100♪
        ふる のきば
ももしきや 古き軒端の しのぶにも
           むかし
なほあまりある 昔なりけり (順徳院 じゅんとくいん)



『 読み方 』
モモシキヤ フルキノキバノ シノブニモ 
ナオアマリアル ムカシナリケリ

『 現代語訳 』
「宮中の古い軒端に生えた忍ぶ草を見るにつけても、しのんでもしのびきれないほど、昔のさかんな御代(みよ)が思われるよ。」

※ももしきや・・・「ももしき」は、宮中。「や」は詠嘆の間投助詞。
※古き軒端・・・皇居の古びた軒端。
※しのぶにも・・・「しのぶ」は「忍ぶ草」と「(昔を)偲ぶ」との掛詞。「忍ぶ草」は、家の軒先や木の幹に生えるシダ植物。「忍ぶ草が生える」というのは、邸宅の荒廃を象徴する表現。
※なほあまりある・・・やはりしのんでもあまりある。
※昔なりけり・・・「昔」は、宮中に忍ぶ草など生えない王朝の盛時をいう。

順徳院は、後鳥羽院の第三皇子です。承久の乱では、お父さんの参謀役をつとめ、事件の後に佐渡に流されています。
この歌は、承久の乱が起こる5年前に詠まれました。

ももしきや 古き軒端の 忍ぶ(草)

掛詞の一方の意味を出すと、なんだか俳句のようになりますね。
武家がやりたい放題なので、宮中には忍ぶ草が生えるありさまです。
皇室の権威はまるつぶれ・・・。

しのぶにも、あほあまりある昔なりけり。

順徳院は、皇室が盛んだった時代をしのびます。

しのんでもしのんでもなほあまりある「昔」とは、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)年間、天皇がみずから政務をとった醍醐天皇や村上天皇の時代のことを言っているのでしょう。
ところが最近、定家は天智天皇の時代を考えていた、という説が脚光を浴びています。

天智天皇・持統天皇の時代から、後鳥羽院・順徳院の時代まで600年。
定家が選んだ100人の歌人をつなぐと、それがそのまま王朝文化の系譜になります。
順徳院が天智天皇の「昔」を思えば、『百人一首』は首尾が一貫するわけです。

連綿としてつづいた王朝文化の歴史は、承久の乱によって幕を閉じました。
順徳院の見た軒端の忍ぶ草は、定家にとって、古きよき時代の王朝文化そのものだったかもしれない。



『 作者について 』

順徳院 (1197~1242年)

第84代天皇。
後鳥羽院の第三皇子。
後鳥羽院の期待を受けて、即位。
のち後鳥羽院とともに倒幕をはかって敗れ、佐渡に配流。在島22年で、46歳の生涯を終えた。
歌学書に『八雲御抄(やくもみしょう)』、家集に『順徳院御集』がある。







百人一首 99♪
ひと    ひと うら
人もをし 人も恨めし あぢきなく
よ おも          おも み
世を思ふゆゑに もの思ふ身は (後鳥羽院 ごとばいん)



『 読み方 』
ヒトモオシ ヒトモウラメシ アジキナク 
ヨオオモーユエニ モノオモーミワ

『 現代語訳 』
「人がいとしくも、恨めしく思われる。この世をつまらないと思うがゆえに、いろいろともの思いをする自分には。」

※人もをし・・・「人」は「身(自分)」に対する他人。「愛(を)し」は、いとしい。
※あぢきなく・・・つまらなく。
※もの思ふ身は・・・倒置で、初句・二句につづく。

数奇な生涯をおくった後鳥羽院の術懐歌。
承久の乱の9年前、院が33歳のときに詠んだ歌です。

あぢきなく」という言葉が主題です。このキーワードをはさんで、前半に「人をし人恨めし」という対の表現、後半に「世を思ふゆえにもの思ふ身は」という反復表現が置かれていることに注意して下さい。

後鳥羽院は「あぢきなく(つまらんなあ・・・)」と言っています。
何がつならないのか・・・・・。

あぢ着なく 世を思ふゆゑに (こんな世の中つまらないと思うから)
あぢきなく もの思ふ身は   (つまらないもの思いをする私は)

世の中もつまらないし、もの思いもつまらない。
つまらないことづくしです。

この「あぢきなく」は「世を思ふ」にかかるとするのが通説ですが、「もの思ふ」にかけてもいいのではないでしょうか。
この世がつまらないのは、他人のことが信じられないからですが、もの思いをするのは、そういう他人を信じたいからなのでしょう。
ですから、

人も愛し 人も恨めし!

自分には他人がいとおしい時と、他人が恨めしい時がある。
全国土を統治し、万民の父であるべき帝王にとって、そういう心のありようは恥ずかしいことでした。
つまらないといえば、そういう自分が1番つまらない。
「あぢきなし」という言葉が、最後には自分に返ってきているわけですね。



『 作者について 』

後鳥羽院 (1180~1239年)

高倉天皇の第四皇子。第82代天皇。
4歳で即位、19歳で譲位。
承久の乱で隠岐に配流。在島19年、60歳で崩御。歴代帝王中、屈指の歌人で、『新古今集』の編纂を親裁。
歌学書に『後鳥羽院御口伝(ごとばいんごくでん)』、家集に『後鳥羽院御集』。
百人一首 98♪
かぜ         をがは   ゆふぐ
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
      なつ
みそぎぞ夏の しるしなりける (藤原家隆 ふじわらのいえたか)



『 読み方 』
カゼソヨグ ナラノオガワノ ユーグレワ 
ミソギゾナツノ シルシナリケル

『 現代語訳 』
「風がそよそよと楢(なら)の葉に吹いている。このならの小川の夕暮れは、(もう秋が来たように涼しいから、)六月祓(みなづきはらえ)のみそぎだけが夏であることのあかしなのであるよ。」

※風そよぐ・・・風がそよそよと音をさせて吹く。
※ならの小川・・・上賀茂神社(京都市北区)の近くを流れる御手洗川(みたらしがわ)。「御手洗川」とは、参詣する人が手を洗い口をすすぐ川ということ。「なら」は「楢(ブナ科の落葉高木)」との掛詞。
※みそぎ・・・罪やけがれを祓いのぞくために、河原で水をかけて身を清めること。この「みそぎ」は「六月祓/夏越しの祓」をさす。陰暦6月の最終日に行われた神事で、半年間の罪とけがれを祓い落とすという。
※夏のしるし・・・夏であることの証拠。

定家とならび称された、藤原家隆の歌。

前関白藤原道家の娘が入内することになりました。
天皇家に嫁に行く時は、嫁入り道具として、屏風を調達するのがならわしでした。
その屏風には、1年12ヶ月の風物が描かれます。これが屏風絵です。
その屏風絵に合わせて歌を詠んでいく。これが、屏風歌。


道家の娘の屏風歌は、当代きっての歌人たちに、制作が依頼されました。家隆が詠んだ36首の中で、採用されたものは7首。
そのうちの1つがこの歌です。

屏風絵は「みそぎ(六月祓)」でした。どんな絵柄だったかは、屏風が残っていないので分かりませんが、御手洗川のほとりで風にゆれる楢の木が描かれていたのかもしれません。
家隆はその絵に合わせ、本歌取りをして、この歌を仕上げました。




『 作者について 』

藤原家隆 (1158~1237年)

権中納言光隆の子。
若いころ寂連の養子となり、俊成に和歌を学ぶ。定家と並び称され、和歌所の寄人となる。
『新古今集』の選者の1人。後鳥羽院の信頼あつく、院の隠岐配流後も音信を絶やさなかった。
家集に『壬二集』。



子猿でござる♪
先日、1年ぶりに「地獄谷野猿公苑」へ行って参りました~♪
滞在時間は2時間程と少しでしたが、僅かな時間でもお猿さん撮影は楽しく、心から癒されたひと時でした♪♪

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百人一首 97♪
こ  ひと        うら   ゆふ
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
や  もしほ   み
焼くや藻塩の 身もこがれつつ (藤原定家 ふじわらのさだいえ)



『 読み方 』
コヌヒトオ マツオノウラノ ユーナギニ 
ヤクヤモシオノ ミモコガレツツ

『 現代語訳 』
「いくら待っても来ない人を待つ私は、夕なぎのころ松帆(まつほ)の浦で焼く藻塩のように、身もこがれつつ待ち続けています。」

※まつほの浦・・・淡路島の北端、兵庫県津名郡淡路町松帆の海岸。「松帆」の「松」に「待つ」が掛けられている。
※夕なぎ・・・風がなく、波が穏やかに静まった状態。
※焼くや藻塩の・・・焼く藻塩のように。「や」は語調を整え、感動をあらわす間投助詞。「藻塩」は、海藻からとる塩。当時は、海水を注いだ海藻(藻塩草)を日に干し、それを焼いて水にとかし、煮詰めて塩をとったという。「まつほの」から「藻塩の」までが序詞。
※身もこがれつつ・・・「こがれ」は思いこがれる。これに、藻塩が焼けこげるの意を掛ける。

宮中の歌合で読んだ題詠の歌。
女性の立場で、恋人を待つ気持ちをうたっています。実質的な内容を取り出せば、身も蓋もありません。

来ぬ人を待つ・・・・・身もこがれつつ
ひっくり返すと、そのつまらなさに興ざめするほどです。
「身もこがれつつ来ぬ人を待つ」。
何やら、安ものの演歌に似ていますね。
この素材を、珠玉のようにするのが、中に入れた「まつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩」という部分です。

来ぬ人を待つと読めば、恋人を待って身をよじる女の姿が浮かぶのですが、
・・・・・まつほの浦の 夕なぎに
までいくと、我々の心は、いつしか夕暮れの海辺にさそわれて、意味もなくさびしい気分になります。
さらには、
焼くや藻塩の 身もこがれつつ
で、意味不明な海辺の情景が、実は女のこがれた心であったということを知らされます。
女の心は、塩を焼く火のように燃えている。
立ち上がる一筋の煙には、妖しさが漂います。

我々は、言葉の力で、作者にあちこちと引きずり回されているわけですね。
主題はあくまでも「身をこがれつつ来ぬ人を待つ」なのですが、読んだ後、それだけでは済まされない何かが残る。
これが、木の皮を純白の和紙に変えるような、定家の芸でした。




『 作者について 』

藤原定家 (1162~1241年)

藤原俊成の子。
名は「さだいえ」だが、慣用で「ていか」と読む。
正二位権中納言まで昇進。
御子左家の中心人物として活躍。
『新古今和歌集』の選者の1人。
家集に『拾遺愚草(しゅういぐそう)』、日記に『明月記』、歌論に『近代秀歌』などがある。

百人一首 91~100♪
「百人一首 91♪」
        な   しもよ
きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに
ころも            ね
衣かたしき ひとりかも寝む (藤原義経 ふじわらのよしつね)

「百人一首 92♪」
   そで  しほひ  み     おき  いし
わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
ひと  し
人こそ知らね かわくまもなし (二条院讃岐 にじょういんのさぬき)

「百人一首 93♪」
よ  なか  つね         なぎさ
世の中は 常にもがもな 渚こぐ
     をぶね  つなで
あまの小舟の 綱手かなしも (源実朝 みなもとのさねとも)

「百人一首 94♪」
 よしの  やま あきかぜ よ
み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて
     さむ ころも
ふるさと寒く 衣うつなり (藤原雅経 ふじわらのまさつね)

「百人一首 95♪」
           よ たみ
おほけなく うき世の民に おほふかな
   た  そま すみぞめ そで
わが立つ杣に 墨染の袖 (前大僧正慈円 さきのだいそうじょうじえん)

「百人一首 96♪」
はな    あらし には  ゆき
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
              み
ふりゆくものは わが身なりけり (藤原公経 ふじわらのきんつね)

「百人一首 97♪」
こ  ひと        うら   ゆふ
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
や  もしほ   み
焼くや藻塩の 身もこがれつつ (藤原定家 ふじわらのさだいえ)

「百人一首 98♪」
かぜ         をがは   ゆふぐ
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
      なつ
みそぎぞ夏の しるしなりける (藤原家隆 ふじわらのいえたか)

「百人一首 99♪」
ひと    ひと うら
人もをし 人も恨めし あぢきなく
よ おも          おも み
世を思ふゆゑに もの思ふ身は (後鳥羽院 ごとばいん)

「百人一首 100♪」
        ふる のきば
ももしきや 古き軒端の しのぶにも
           むかし
なほあまりある 昔なりけり (順徳院 じゅんとくいん)
百人一首 96♪
はな    あらし には  ゆき
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
              み
ふりゆくものは わが身なりけり (藤原公経 ふじわらのきんつね)



『 読み方 』
ハナサソー アラシノニワノ ユキナラデ 
フリユクモノワ ワガミナリケリ

『 現代語訳 』
「花を散らす嵐の庭、そこに降りゆくものは雪ではなくて、本当に古(ふ)りゆくものは、じつにわが身であったのっだなあ。」

※花さそふ・・・桜の花を誘って散らす。「さそふ」の主語は、嵐。
※嵐の庭・・・嵐の吹く庭。
※雪ならで・・・雪ではなくて。この「雪」は、散る花びらを雪に見立てた表現。
※ふりゆく・・・「ふり」は「降(ふ)り」と「古(ふ)り」との掛詞。「古りゆく」は、老いてゆく、ということ。

落花を見ながら、自分の老いを嘆いた歌。この歌を詠んだのは、鎌倉初期の政治家、藤原公経です。

「降り」と「古り」の掛詞を軸に、暗転する演出がまことにみごと。
こんなからくりです。

降りゆくものは 花さそふ嵐の庭の雪・・・ならで
ここまでは絢爛豪華な、おごりの春の景色です。
つよい風が庭の桜を散らせます。
降りゆくものは、花吹雪・・・かと思ったが、

古りゆくものは わが身なりけり
ちがいました。
古りゆくものは、自分であった。
私は老いた。
あの花吹雪も、夢のまた夢・・・・・。



『 作者について 』

藤原公経 (1171年~1244年)

内大臣実宗の子。定家の義弟。
鎌倉幕府と強く連携し、承久の乱の後、京都宮廷で確固たる地位をかためる。
従一位太政大臣。
西園寺家の祖。
定家の御子左家を庇護したことでも知られる。






ちょっと休憩 18♪
昨日で百人一首が95句目まで到達致しました~♪
100句まで、早いもので残すところ5句となりました。
毎度のセリフとなりましたが・・・
今日は1句目から95句目までの復習を致しますので、今日は百人一首をお休みさせて頂きます。(^^)

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百人一首 95♪
           よ たみ
おほけなく うき世の民に おほふかな
   た  そま すみぞめ そで
わが立つ杣に 墨染の袖 (前大僧正慈円 さきのだいそうじょうじえん)



『 読み方 』
オオケナク ウキヨノタミニ オオーカナ 
ワガタツソマニ スミゾメノソデ

『 現代語訳 』
「身の程にすぎたことながら、(僧侶として)私はこの世の民におおいかけることだ。比叡の杣山に住み、身にまとっているこの墨染めの袖を。」

※おほけなく・・・身分不相応に。
※うき世の民・・・この世に生きる人々。
※おほふかな・・・「墨染めの袖をおほふかな(墨染めの袖で庇護する)」の意。仏法によって人々を災禍(さいか)から守り、その安全を祈るということ。
※わが立つ杣・・・比叡山をさす。「杣」は「杣山(材木を切り出す山)」。杣山というのは、自然に木が生えた山ではなく、木を植えて育てた山をいう。
※墨染の袖・・・僧衣の袖。「墨」が「住み」との掛詞。

仏法の力で万民を救いたいという抱負を詠んだ歌。

慈円は11歳で出家しました。宗旨は天台宗です。
彼はのちに天台座主(てんだいざす/比叡山延暦寺の長の意)になるのですが、この歌はまだそこまで偉くなる前の、若い頃に詠んだ作だと考えられています。

天台宗の宗祖(しょうそ)は、伝教大師最澄(でんだいきょうだいしさいちょう)。
その最澄が、比叡山に根本中堂を建立したとき、
あのくたら  さんみゃくさんぼだい                  みょうが
阿耨多羅 三藐三菩提の 仏たち わが立つ杣に 冥加あらせたまへ
(一切の真理を知る仏たちよ。私の入り立つこの杣山に、どうかご加護をお垂れ下さい。)

という歌を詠みました。(『新古今和歌集』・巻二十・釈教・一九二〇)。
これが、慈円の歌の本歌となっています。
「おほけなく・・・・」と始める謙虚な詠みぶりの中に、最澄の教えを受け継ぐ僧侶として、鎮護国家のために身を捧げなければいけないという使命感が、高々として感じられる秀作です。



『 作者について 』

前大僧正慈円 (1155~1225年)

関白藤原忠道の子。兼実の弟。
11歳で出家。建久3年(1192年)天台座主となる。
政変によって、生涯に四度、座主をつとめた。
家集に『拾玉集(しゅうぎょくしゅう)』。
また『愚管抄』は、仏教思想による傑作した史論書として知られる。
百人一首 94♪
 よしの  やま あきかぜ よ
み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて
     さむ ころも
ふるさと寒く 衣うつなり (藤原雅経 ふじわらのまさつね)



『 読み方 』
ミヨシノノ ヤマノアキカゼ サヨフケテ 
フルサトサムク コロモウツナリ

『 現代語訳 』
「吉野山の秋風が夜もふけて吹きわたり、旧都であるこの里は身にしみる寒さ、そのうえに衣を打つ砧(きぬた)の音が寒々と聞こえてくるよ。」

※み吉野・・・吉野。「み」は「すばらしいところだ」という意味で添える接頭語。
※さ夜ふけて・・・夜がふけて。「さ」は語調を整えるための接頭語。
※と・・・旧都。昔、吉野には、応神(おうじん)・雄略(ゆうりゃく)・天武(てんむ)天皇の離宮があった。
※寒く・・・前からは、ふるさとが「寒く」。後ろへは、「寒く」うつ、とつながる。「寒くうつ」とは、砧の音が寒々として聞こえることをいう。
※衣うつなり・・・衣を打つ音が聞こえる。「衣うつ」は、木の槌で衣を打って、やわらかくしたり光沢を出したりすること。そのとき衣を敷く台を砧(衣板の転)という。「なり」は推定の助動詞。

『新古今和歌集』に「擣衣(とうい)の心を 藤原雅経」とあるのが出典です。
「擣衣」は、布地をやわらかくするために木槌で着物を打つこと。中国ではその木槌を「杵(しょ)」といい、着物をのせる台を「砧(ちん)」と言いました。
布をのせた砧を、杵でたたくと音が出ます。
これが「砧音(ちんせい)」です。
日本ではふつう「砧(きぬた)の音」と呼ばれていました。

この歌は唐の詩人李白の「子夜呉歌(しやごか)」をふまえているようです。
高校などで学ばれた方が多いと思いますが、ここで復習しておきましょう。

          ちょうあん いっぺん つき
長安一片月  長安 一片の月           「長安城に 月ひとつ」
           ばんこ ころも う こえ
万戸擣衣声  万戸 衣を擣つ声          「砧の音は 四方から」
          しゅうふう ふ    つ
秋風吹不尽  秋風 吹いて尽きず         「尽きることなき 秋風に」
           すべ こ   ぎょくかん じょう
総是玉関情  総て是れ 玉関の情        「思いやるのは 西のはて」
           いず   ひ     こりょ  たい
何日平胡虜  何れの日にか 胡虜を平らげ   「いくさに勝って いつの日に」
          りょうじん えんせい や
良人罷遠征  良人 遠征を罷めん         「帰っってくるの あの人は」



『 作者について 』

藤原雅経 (1170~1221年)

藤原頼経の子。
参議従三位右兵衛督まで昇進。
俊成の門下で歌を学び、やがて和歌所の寄人(よりうど)として、『新古今和歌集』の編纂にあたった。
蹴鞠(けまり)や篳篥(ひちりき)をよくし、能書家としても知られる。
家集に『明日香井和歌集』がある。

百人一首 93♪
よ  なか  つね         なぎさ
世の中は 常にもがもな 渚こぐ
     をぶね  つなで
あまの小舟の 綱手かなしも (源実朝 みなもとのさねとも)



『 読み方 』
ヨノナカワ ツネニモガモナ ナギサコグ 
アマノオブネノ ツナデカナシモ

『 現代語訳 』
「この世の中は、永遠に変わらないでいてほしいものだなあ。波打ち際をこいでゆく漁師の小舟の、引き綱をあやつる景色が心にしみるよ。」

※常にもがもな・・・不変であればいいなあ。「常」は「無常」の反対で、永久不変であること。「もがも」は願望の終助詞。「な」は詠嘆の終助詞。
※渚・・・波打ち際。
※あま・・・漁師。
※綱手・・・舟の先につけて、舟を引いてゆくための引き綱。
※かなしも・・・「かなし」は大きく「愛し」と「悲し」にわかれるが、ここは両者が混然としている。おもしろく、悲しく、「身にしみて心ひかれる」のである。「も」は詠嘆の終助詞。

悲劇の人、源実朝が詠んだ歌。
鎌倉幕府の三代将軍であったこの人は、28歳で甥に暗殺されてこの世を去りました。
この歌は、実朝が22歳になるまでに詠んだ歌だと考えられます。

由比ガ浜か、七里ガ浜・・・・・。
実朝は鎌倉の海辺にいました。
征夷大将軍という冠は、まだ若い実朝には荷が重かったと思います。
権謀術数、権力争い、実朝にせまる危機、若さゆえの漠然とした感傷・・・・・。

世の中は常にもがもな(永遠を!)」

と実朝は思いました。
この世が永遠であって欲しいと彼が願ったのは、そんなものがこの世にはないことを知っていたからだと思います。
殺されるかもしれないという予感が、この若い詩人にはありました。

ふと見ると、年若な漁師たちが、舟の引き綱を引いて、渚を移動していきます。
猟師たちは白い歯を見せて笑っていました。
どこに行こうとしているのでしょうか。
それは分かりませんが、ともかくも、漁師たちが懸命に生きようとしているのは確かでした。
不意に、この若い詩人の中に、なんともいえないおかしみがこみあげてきました。

かなしも(やってますな!)」

人の世は、つまるところ、綱を引いて舟を渡す程度のいとなみに尽きるのかもしれません。
「自分も綱手を引こう。生きよう。」と、実朝は思いました。



『 作者について 』

源実朝 (1192~1219年)

頼朝の次男で、鎌倉幕府三代将軍。
11歳で将軍になるが、権力は母政子の実家北条氏が掌握していた。18歳から定家に師事し、和歌の指導を受ける。28歳で甥に暗殺されて、死去。
家集に『金塊和歌集』がある。

百人一首 92♪
   そで  しほひ  み     おき  いし
わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
ひと  し
人こそ知らね かわくまもなし (二条院讃岐 にじょういんのさぬき)



『 読み方 』
ワガソデワ シオヒニミエヌ オキノイシノ 
ヒトコソシラネ カワクマモナシ

『 現代語訳 』
「私の袖は、潮干のときにも海中に隠れて見えない沖の石のように、人は知らないでしょうが、恋の涙でかわく暇もありません。」

※潮干に見えぬ・・・海水がひいても姿をあらわさない。「潮干」は潮水がひくこと。
※沖の石の・・・沖の石のように。
※人こそ知らなね・・・人は知らないが。「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形。「こそ~已然形」で文が続くと、逆説になることが多い。
※かわくまもなし・・・いつも涙にぬれて、かわく暇がない。

「石に寄する恋」という題で詠んだ歌。
中国最初の抒情(じょじょう)詩集である『詩経(しきょう)』に、「わが心は石にあらざれば」とうたわれているように、「石」は昔から無常なものの象徴とされてきました。
そんな石に託して恋の思いを詠むのは至難のわざ。二条院讃岐は、この難題をどのように切り抜けたのでしょうか。

文脈だけでいえば、この歌はなんの変哲もありません。

わが袖は、人こそ知らね、かわくまもなし。
(私の袖は、人は知らないだろうが、恋の涙でかわく暇もない)

という、たったそれだけのこと。
そこに、次の比喩をぱちんとはめ込むと、ようすが変わってきます。

潮干に見えぬ 沖の石の
(それはまるで、潮水がひいても見えない沖の石のよう・・・・・)

ひめた恋心を、海中の石にたとえる―。
この比喩は独創的でした。

当時よほど評判になったのでしょうか、江戸時代の本にのっている説なので本当かどうかわかりませんが、この歌を詠んでから、二条院讃岐は「沖の石の讃岐」という異名をとったと伝えられています。



『 作者について 』

二条院讃岐 (生没年未詳)

永治元年(1141年)ごろ出生、建保5年(1217年)ごろ死没したと見られる。
源三位頼政の娘。
二条天皇の女房。
のち、後鳥羽院中宮宜秋門院にも仕えたらしい。
父譲りの歌才で、歌合にも数多く出詠。
家集に『二条院讃岐集』がある。
百人一首 91♪
        な   しもよ
きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに
ころも            ね
衣かたしき ひとりかも寝む (藤原義経 ふじわらのよしつね)



『 読み方 』
キリギリス ナクヤシモヨノ サムシロニ 
コロモカタシキ ヒトリカモネン

『 現代語訳 』
「こおろぎの鳴く、この霜夜の寒々とした筵(むしろ)の上に、私は衣の片袖を敷いて、ただひとり寝ることになるのかなあ。」

※きりぎりす・・・今のコオロギ。
※鳴くや霜夜の・・・鳴く霜夜の。「や」は語調を整える間投助詞。「霜夜」は、霜の置く晩秋の寒い夜。
※さむしろ・・・筵。藁(わら)・菅(すげ)などを編んで作った粗末な敷物。「さむしろ」の「さ」は接頭語。「さむし」の部分は、掛詞ふうに「寒し」を響かせてある。
※衣かたしき・・・自分の着物の片袖を敷いて。共寝のときは互いの袖を敷き交わすが、ひとり寝は片袖を敷いて寝ることになる。
※ひとりかも寝む・・・ひとりで寝ることになるのかなあ。

正治2年(1200年)、後鳥羽院が人々に提出を命じた「正治百首」の中の1首です。
この歌をおさめた『新古今和歌集』でも、作者藤原義経の家集でも、この歌は秋の部に配列されています

これも本歌取りの歌です。
本歌と思われるものはたくさんあるのですが、ここでは分かりやすいものを2つあげておきたいと思います。

1つは、『古今和歌集』・巻十四・恋四・六八九の歌。
さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我を待つらむ 宇治の橋姫
(窮屈な筵にひとり寝をして、今晩も私をまっているのだろうか。あの宇治の橋姫は。)
「宇治の橋姫」というのは、宇治橋の守り神のこと。歌の作者が、自分のなじみの女性を、宇治橋の守り神にたとえたと考えられています。

もう1つは、『拾遺和歌集』・巻十三・恋三・七七八の歌。
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む
(山鳥の長く垂れ下がった尾のように、長い長いこの夜を、私はたったひとりで寝ることになるのかなあ。)
これは『百人一首』3句目の柿本人麻呂の歌です。




『 作者について 』

藤原義経 (1169~1206年)

忠通の子。
従一位摂政太政大臣に昇ったが、38歳で急死。
俊成・定家に和歌を学び、和歌所の寄人となる。
漢詩文に通じ、書もよくした。
家集に『秋篠月清集』がある。

ちょっと休憩 17♪
昨日に百人一首が90句目に到達致しました~♪

昨年10月28日に「1日1句♪」と学習をスタートしてから、早いもので半年近くとなりました。
お恥ずかしい話ですが、勉強をしていなければ漠然としか知らなかった百人一首。
それが今では90句マスター出来て、その句の状況や背景をイメージ出来るようになっていること
に驚いています。@@
あと10句、引き続き地道に頑張りたいと思いま〜す♩p(^_^)q

ということで、毎度のセリフとなりましたが、今日は1句目から90句目までを復習致しますので
百人一首はお休みさせて頂きます。

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百人一首 90♪
み        をじま        そで
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
            いろ
ぬれにぞぬれし 色はかはらず (殷富門院大輔 いんぷもんいんのたいふ)



『 読み方 』
ミセバヤナ オジマノアマノ ソデダニモ 
ヌレニゾヌレシ イロワカワラズ

『 現代語訳 』
「(血の涙で色の変わった私の袖を)お見せしたいものですよ。あの雄島の漁師の袖でさえ、海水にひどくぬれながらも、色が変わることはありませんのに。」

※見せばやな・・・見せたいものですよ。
※雄島・・・宮城県、松島の島の中の1つ。
※あま・・・漁師。
※袖だにも・・・袖でさえも。
※色はかはらず・・・漁師の袖の色は変わらない。裏返すと、私の袖は色が変わっているということになる。色が変わるのは「血の涙(極度の悲しみで流す涙)」のせいである。

歌合で詠まれた恋の歌。
なんの歌合で詠まれた歌かは、はっきりわかっていません。

この歌には、本歌取り(ほんかどり)の技法が用いられています。
本歌取りというのは、有名な古歌の表現を取り入れて、新しい歌を作る技法のことをいいます。

この歌の本歌は、『後拾遺和歌集』(恋四)に入っている源重之の歌。
本歌を知らないと、殷富門院大輔の歌がわからないので、ここで紹介しておきましょう。

松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか
(松島の雄島の磯で漁をする漁師の袖は、私の涙の袖と同じように海水でぬれたことでした。)

「漁師の袖が海水でぬれた、それは自分の袖が涙でぬれるのと同じだった」というのが、この歌の内容です。
つまりは、「それほど自分は苦しい恋に泣いている」というわけですね。



『 作者について 』

殷富門院大輔 (生没年未詳)

天承元年(1131年)ごろに生まれ、正治2年(1200年)ごろ没したか。
従五位下藤原信成の娘。
殷富門院(後白河院第一皇女亮子内親王)の女房。
当時の歌合に多く出詠し、藤原定家・家隆とも親交があった。
家集に『殷富門院大輔集』。



百人一首 89♪
たま を   た      た
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
しの       よわ
忍ぶることの 弱りもぞする (式子内親王 しょくしないしんのう)



『 読み方 』
タマノオヨ タエナバタエネ ナガラエバ 
シノブルコトノ ヨワリモゾスル

『 現代語訳 』
「私の命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえていたならば、たえ忍ぶ心が弱まって、人目につくようなことにでもなると大変だから。」

※玉の緒よ・・・わが命よ。「玉の緒」の原義は「玉を貫き通す紐」。転じて、魂を身体につなぎとめる糸、すなわち「命」の意となった。「絶え」「ながらへ」「弱り」はすべて「玉の緒」の縁語。
※絶えなば絶えね・・・絶えてしまうのなら絶えてしまえ。
※ながらへば・・・生き長らえたならば。
※忍ぶる・・・こらえる。
※弱りもぞする・・・弱っては大変だ。「もぞ」は72句の歌に出た「もこそ」と同じ。懸念する気持ちをあらわし、「~ては大変だ」などと訳す。

「忍ぶる恋」という題で詠まれた歌。
この歌をおさめた『新古今和歌集』の詞書によって、百首歌の中の1つだということはわかるのですが、いつどういう状況で詠まれた百首歌であるのかは分かっていません。

式子内親王の代表作。
『百人一首』の中でも指折りの名歌として、古来評判の高い作です。

まのをよ! えなばえね!
「わが命よ」と強く呼びかけるところから、この歌は始まります。
「夕」の音を繰り返した調べが、内容の激しさに拍車をかけながら、「絶えね」の命令まで一気になだれ込んでいるかのようです。
「わが命よ、もし絶えるのなら、絶えてしまえ!」。

長らへば 忍ぶることの 弱りもぞする
そのつよい調子が、後半では一転して、切なく悲しい調べに変わります。
「これ以上生き長らえると、人目を忍ぶことが出来なくなるかもしれないから・・・・・」。
自分で自分の命に「絶えね」と命じたのは、忍ぶ恋の発覚する恐れがあるからでした。
題詠の歌ですが、題詠とは思えない切実さが、読む者の胸にせまります。



『 作者について 』

式子内親王 (?~1201年)

後白河院の第三皇女。
賀茂の斎院をつとめるが、病気により退下(たいげ)。
独身のまま、建久5年(1194年)ごろ出家。
叔父・崇徳院、兄・以仁王、甥・安徳天皇など、肉親がつぎつぎに非業の死を遂げ、自身も晩年陰謀事件に巻き込まれた。
家集に『式子内親王集』がある。



百人一首 88♪
なにはえ  あし
難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ
           こ
みをつくしてや 恋ひわたるべき (皇嘉門院別当 こうかもんいんのべっとう)



『 読み方 』
ナニワエノ アシノカリネノ ヒトヨユエ 
ミオツクシテヤ コイワタルベキ

『 現代語訳 』
「難波江の芦の刈根の一節ではないが、たった一夜の仮寝のために、命を捧げて恋しつづけなければならないでしょうか。」

※難波江・・・難波(現在の大阪市)の入り江。「難波」は「芦」や「澪標(みおつくし)」を連想させる歌枕。
※芦のかりね・・・「芦の」までが序詞。「かりね」は「刈根(刈ったあとに残る根株(」と「仮寝(旅先での仮の宿り)」との掛詞。
※ひとよ・・・「一節(節と節の間)」と「一夜」との、ひとよの掛詞。「一節」は、短いことのたとえによく用いられる。
※みをつくし・・・「澪標(船の通り道を示すために立てられた杭)」と「身を尽くし(命を捧げる)」との掛詞。
※恋ひわたるべき・・・恋いつづけなければならないのだろうか。「~わたる」は「~しつづける」の意。

旅の宿りに逢ふ恋(旅の宿で契りをかわした恋)」という題で詠まれた歌。歌合の歌ですから、実体験をそのまま詠んだものではありません。

作者はこの「旅の宿り」を、難波に設定しています。
まずは、縁語にご注目下さい。

難波江の 芦の刈根の 一節ゆゑ 澪標てや 恋ひわたるべき 

「芦 ― 刈根 ― 一節 ― 澪標 ― わたる」が「難波江」の縁語です。
節のある芦は、難波のシンボルでした。芦を刈り取ったさびしい難波江。そのさびしい入り江を、澪標を頼りに、舟が渡っていきます。
この歌の主人公は、そんなさびしいところにいる、という設定です。

一方、主文脈は、序詞をはずし、掛詞のもう一方の意味をつないでみるとよくわかります。

仮寝の 一夜ゆゑ 身を尽くしてや 恋ひわたるべき
(かりそめの一夜をともにしたせいで、命をかけて、私は一生あなたを恋いつづけなければならないのでしょうか。)
かりそめの契りが、一生の心の傷になる・・・。
歌の主人公は、そうなってしまったことに驚き、嘆き、なぜこんなことになったのかと、自問している風情です。



『 作者について 』

皇嘉門院別当 (生没年未詳)=12世紀の人。

太王太后宮亮源俊隆の娘。
崇徳院の皇后皇嘉門院(関白藤原忠通の娘)に仕えた。
皇嘉門院の異母弟に右大臣藤原兼実がおり、兼実邸での歌合にしばしば参加。
この歌もそこでの詠である。
『千載集』以下に9首入集。

百人一首 87♪
むらさめ つゆ            は
村雨の 露もまだひぬ まきの葉に
きりた       あき ゆふぐ
霧立ちのぼる 秋の夕暮れ (寂連法師 じゃくれんほうし)



『 読み方 』
ムラサメノ ツユモマダヒヌ マキノハニ 
キリタチノボル アキノユーグレ

『 現代語訳 』
「村雨が通り過ぎ、その露もまだ乾いていない真木の葉のあたりに、霧がほの白く立ちのぼっている、さびしい秋の夕暮れよ。」

※村雨・・・秋から冬にかけて降るにわか雨。ひとしきり降って通りすぎてゆく。
※露・・・村雨がやんだあと、葉の上に残るしずく。
※まだひぬ・・・まだ乾かない。「ひ」は動詞「干る」の未然形。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。
※まきの葉・・・杉・檜(ひのき)・槇(まき)などの総称。現在いう槇だけに限らない。「真木」と書く。

寂連法師、63歳の叙景歌。
一幅(いっぷく)の墨絵といっていい風景です。

寂連はあちこちを旅して歩いていますから、実際の真木山をじっくり観察する機会も多かったのだろうと思います。
想像だけでは詠めない迫力が感じられますね。
山林の気というのでしょうか。
「山林の気」とは、せまい意味では自然の息吹(いぶき)。広い意味では隠逸(いんいつ)の趣(おもむき)ということです。
隠逸は、俗世間をのがれて山などに住むこと。また、その人。



『 作者について 』

寂連法師 (1139~1202年)=俗名、藤原定長。

俊成の弟、阿闍梨俊海の子。
幼くして俊成の養子となったが、定家が生まれて離籍。
従五上中務少輔に進んだが、30余歳で出家。
『新古今集』の選者の1人だが、完成を見ずに他界した。
家集に『寂連法師集』。



百人一首 86♪
なげ    つき        おも
嘆けとて 月やはものを 思はする
   かほ       なみだ
かこち顔なる わが涙かな (西行法師 さいぎょうほうし)



『 読み方 』
ナゲケトテ ツキヤワモノオ オモワスル 
カコチガオナル ワガナミダカナ

『 現代語訳 』
「嘆けといって、月が自分にもの思いをさせるのか、いやそうではない。
それなのに、まるで月のせいでもあるかのように、流れて落ちるわが涙であることよ。」

※嘆けとて・・・(月が自分に)「嘆け」といって。
※月やはものを思はする・・・月がものを思わせるのか、いやそうではない。「やは」は反語をあらわす。
※かこち顔・・・月のせいにするようなようす。「かこつ」は、かこつける、他のせいにする。「~顔」は、いかにも~のようす、という意味の接尾語。

「月前恋(つきのまえのこひ)」という題で詠んだ歌。
西行が若年の作といわれていますが、確証はありません。

西行は、月と恋とをあわせて詠むことの好きな歌人でした。
この歌もその1つで、西行の自信作でもありました。

「嘆け」と(言ひ)て、月やはものを思はする

23句の歌で、 「月見れば 千々にものこを 悲しけれ」と詠まれた、あの月。
しかし、西行は、月が自分を嘆かせるのではない、といっています。
「やは」は反語ですから、強い打消になります。
月がものを思わせるのか、いや、そんなことは絶対ありえない。と。

かこち顔なる わが涙かな
それでも、自分はそれを、月のせいだといわんばかりに泣いている。
本当は、あの人のせいなのに。
あの人のせいだということは、自分のせいでもある。
それを認めたくない自分というのは、いったいなんであろう・・・・・。
あの人を恨むこともできず、自分が悪いわけでもない。
かなわぬ恋とは、そういうものなのでしょう。
この涙を月のせいにすればいっそ楽なのですが、そうでないことは自分がいちばん分かっています。

だれのせいでもない涙は、月に向かって流すしかしようがなかったようです。



『 作者について 』

西行法師 (1118~1190年)

俗名、佐藤義清(さとうのりきよ)。
鳥羽院の北面の武士だったが、23歳で出家。
法名は円位(えんい)、西行と称した。
出家の動機」には諸説がある。
諸国を旅し、求道(くどう)と作家に生涯を捧げた。
建久元年(1190年)、河内の弘川寺(ひろかわでら)で入寂(にゅうじゃく)。
家集に『山家集』がある。






ちょっと休憩 16♪
先週、百人一首が85句目まで到達致しました~♪
早いもので残すところ15句となりました。
引き続き、コツコツと学習していきたいと思います。
毎度のセリフとなりましたが・・・
今日は1句目から85句目を復習致しますので、百人一首はお休みさせて頂きます。



毎度毎度の余談です~。
「今年はたくさん春の風景を撮りに行かなきゃ。」という焦りとは裏腹に、エンジンがかからずノンビリマッタリとした春を過ごしております。
GWに長期休暇がとれそうなので、GWだけでも気合いを入れて「桜&憧れの地巡り」を頑張りたいと思います♪
(^^)

「今日はエイプリールフールだから、それもホントなの?」とのツッコミを頂きそうですが・・・
頑張りま~す!
ほんと、ほんと。
たぶん♪(^^)

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プロフィール

クマコ

Author:クマコ
自然風景が大好きです♪

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