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2013/03
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百人一首 85♪
よ          おも        あ
夜もすがら もの思ふころは 明けやらで
ねや
閨のひまさへ つれなかりけり (俊恵法師 しゅんえほうし)



『 読み方 』
ヨモスガラ モノオモーコロワ アケヤラヌ 
ネヤノヒマサエ ツレナカリケリ

『 現代語訳 』
「一晩中もの思いにふけっているこの頃は、夜もいっこうに明けきらないで、恋人ばかりか寝室のすき間までがつれなく思われることですよ。」

※夜もすがら・・・一晩中。
※もの思ふころは・・・もの思いにふけっているこの頃は。「もの思ふ」は、つれない恋人ゆえのもの思い。
※明けやらで・・・夜が明けきらないで。
※閨のひまさへ・・・「閨」は寝室。「ひま」はすき間。「さへ」は添加をあらわす助詞。「(~の上に)~までも」などと訳す。この場合は、「恋人のうえに、寝室のすき間までも」がつれないという気持ち。
※つれなかりけり・・・「つれなし」は、薄情だ。

女の立場に立って、薄情な男を恨んだ恋の歌。

夜もすがら 物思ふころは 明けやらで

もの思う「ころ」といっていることに注意して下さい。
もの思う今日でもなく、もの思う今宵でもありません。
もの思うこのごろですから、男の来ない夜が、ここ数日続いていることが分かります。
女は思い悩んで、眠れぬ夜を過ごすので、夜がなかなか明けないわけです。

閨のひまさへ つれなかりけり
この下の句が、古来、この歌のポイントだといわれてきました。他に類例がなく、俊恵独自の工夫が感じられる表現だからです。
恋人がつれないうえに、寝室の戸のすき間までもがつれなく感じられる・・・・・。
たしかに少し変わった表現ですね。
女は輾転反側(てんてんはんそく)しながら、ふと、戸のすき間に目をやったが、すき間からは一条の光りももれてこない。明けやらぬ戸のすき間までもが我が身をさいなむ。
「ああ。せめて明かりを・・・・・。」という、夜が明けることを待ち望む気持ちが込められているのですね。



『 作者について 』

俊恵法師 (1113~1191年?)

源俊頼の子。経信の孫。
百人一首には、経信・俊頼・俊恵と三代で撰入される。
東大寺の僧だったが、のち京都の白河に住み、自宅を歌林苑と称して、歌会・歌合を催した。
家集に『林葉集』。
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百人一首 84♪
               ごろ
ながらへば またこの頃や しのばれむ
う   み  よ   いま こひ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき (藤原清輔 ふじわらのきよすけ)



『 読み方 』
ナガラエバ マタコノゴロヤ シノバレン 
ウシトミシヨゾ イマワコイシキ

『 現代語訳 』
「この先もし生き長らえていたならば、今のことがまたなつかしく思い出されるのだろうか。
つらいと思った昔が、今は恋しく思われるのだから。」

※ながらへば・・・もしこの世に生き長らえていたならば。
※また・・・現在のように、将来もまた。
※この頃・・・(つらいことの多い)現在。
※しのばれむ・・・なつかしく思い出されるだろう。
※憂しと見し世ぞ・・・つらいと思ったときが。「世」は時代、ころ。

清輔の家集4に「三条内大臣(大納言)がまだ中将でいらっしゃったときにおくった歌」とあります。

つらかった昔が、今はなつかしい。
すると・・・・・。
今のつらさは、時がたてば懐かしくなるに違いない。

論理的というほどの、大袈裟な歌ではないと思います。
誰もが、
「そういうことってあるよな・・・・・。」
と、納得してしまうような歌。

社会人の方は、受験生のころを思い出してみて下さい。
受験生は、小学生のとき泣いた思い出を。
ご年輩の方々は、戦中や戦後の、大変だったあの時代・・・・・。

たしかにあのとき、あんなに大変だったことが、どうして今なつかしく思えるのか・・・。
時の流れが、傷を癒してくれるのでしょうか。
それとも、人生というものは、雪だるま式に苦労が大きくなっていくものなのでしょうか。




『 作者について 』

藤原清輔 (1104~1177年)

藤原顕輔の子。
正四位下太皇太后宮大進。
二条天皇の信任があつく、勅命によって『続詞花集』を撰んだが、天皇の崩御にあい、勅撰集にはならなかった。
六条家の柱として、王朝歌学を集大成。
家集に『清輔朝臣集』。
百人一首 81~90♪
「百人一首 81♪」
        な      かた
ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば
  ありあけ  つき  のこ
ただ有明の 月ぞ残れる (藤原実定 ふじわらのさねさだ)

「百人一首 82♪」
おも         いのち
思ひわび さても命は あるものを
う           なみだ
憂きにたへぬは 涙なりけり (道因法師 どういんほうし)

「百人一首 83♪」
よ なか  みち        おも い
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
やま おく   しか な
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる (藤原俊成 ふじわらのしゅんぜい)

「百人一首 84♪」
               ごろ
ながらへば またこの頃や しのばれむ
う   み  よ   いま こひ
憂しと見し世ぞ 今は恋しき (藤原清輔 ふじわらのきよすけ)

「百人一首 85♪」
よ          おも        あ
夜もすがら もの思ふころは 明けやらで
ねや
閨のひまさへ つれなかりけり (俊恵法師 しゅんえほうし)

「百人一首 86♪」
なげ    つき        おも
嘆けとて 月やはものを 思はする
   かほ       なみだ
かこち顔なる わが涙かな (西行法師 さいぎょうほうし)

「百人一首 87♪」
むらさめ つゆ            は
村雨の 露もまだひぬ まきの葉に
きりた       あき ゆふぐ
霧立ちのぼる 秋の夕暮れ (寂連法師 じゃくれんほうし)

「百人一首 88♪」
なにはえ  あし
難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ
           こ
みをつくしてや 恋ひわたるべき (皇嘉門院別当 こうかもんいんのべっとう)

「百人一首 89♪」
たま を   た      た
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
しの       よわ
忍ぶることの 弱りもぞする (式子内親王 しょくしないしんのう)

「百人一首 90♪」
み        をじま        そで
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
            いろ
ぬれにぞぬれし 色はかはらず (殷富門院大輔 いんぷもんいんのたいふ)
百人一首 83♪
よ なか  みち        おも い
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
やま おく   しか な
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる (藤原俊成 ふじわらのしゅんぜい)



『 読み方 』
ヨノナカヨ ミチコソナケレ オモイイル 
ヤマノオクニモ シカゾナクナル

『 現代語訳 』
「この世の中にはのがれる道もないのだなあ。深く思いこんで分け入った山の奥でも、悲しそうに鹿が鳴いているようだ。」

※世の中よ・・・「よ」は感動の助詞。「この世の中というものは、まあ・・・・・」という気持ち。
※道こそなけれ・・・道はないのだ。「道」はこの世の憂さからのがれる道。
※思ひ入る・・・「深く思いこむ」と「山に入る」。2つの意味をかねている。
※山の奥・・・「山の奥」は、遁世者(とんせいしゃ)の世界である。
※鹿ぞ鳴くなる・・・鹿が鳴いているようだ。

保延6年(1140年)頃、「術懐百首」として詠んだ歌の中の1つ。
「述懐」は、思いを述べるということで、江戸時代までは「しゅつかい」と読んでいました。
作者、藤原俊成(定家の父)、27歳頃の作です。

俊成の「懐(おもい)」とは、どのようなものだったのでしょうか。

世の中よ 道こそなけれ
世の中に逃げる道はにあよ、と俊成はいっています。
何から逃げるのか・・・。
苦しみです。憂き世のつらさ、俗世の憂鬱、というもの。

思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
俊成は決心しました。
「そうだ、隠遁(いんとん)して、山の奥に行こう・・・」
しかし、そう思って入った山の奥にも、悲しみはありました。
「ヒョー・・・」
雄鹿が妻を求めて鳴いています。悲しい悲しい声で。
そして・・・。

世の中よ 道こそなけれ
逃げる道などないのだ、と俊成は思います。あきらめるということは、出発するということでした。
汚れた憂き世でも、悲しい俗世でも、生きていかなければいけない!
動乱の世を、90歳すぎまで生きた藤原俊成、27歳の決意でした。



『 作者について 』

藤原俊成 (1114~1204年)

権中納言俊忠の子。
定家の父。
和歌を藤原基俊に学んだが、源俊頼の清新な歌風にも影響を受け、独自な歌境をひらいた。
御子左家の家学を創立。
『千載集』選者。
歌論に『古来風体抄』、家集に『長秋詠藻』。
百人一首 82♪
おも         いのち
思ひわび さても命は あるものを
う           なみだ
憂きにたへぬは 涙なりけり (道因法師 どういんほうし)



『 読み方 』
オモイワビ サテモイノチワ アルモノオ 
ウキニタエヌハ ナミダナリケリ

『 現代語訳 』
「あの人ゆえに思い悩み、それでも、命だけはつないでいるのに、そのつらさにたえられないものは、涙だったのだなあ。」

※思ひわび・・・思い悩み。
※さても・・・それでも。「さ」は上の「思ひわび」を受ける。
※あるものを・・・あるのに。
※憂きにたへぬは・・・「憂き(こと)にたへぬ(もの)は」と解する。「つらさにたえられないものは」の意。

歌道熱心で有名な道因法師の詠んだ恋の歌。
恋歌だというだけで、いつ、どんな事情で詠まれた歌かということはまったく分かっていません。

「だけど~だけど・・・・・」と逆説を2度使っていることに注意して下さい。

思ひわび さても 命はある
「さても」は逆説です。
思い悩む、それでも、命はある。

命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり
「ものを」も逆説です。
命はある、しかし、涙はとまらない。
この逆説は、言い換えると、「身体は平気、でも、心はボロボロ」ということですね。

道因は、「だけど、だけど」と子どもみたいに身もだえしながら、心はボロボロなのに身体だけは平気でいることの不思議を思っているようです。



『 作者について 』

道因法師 (1090~?)=俗名、藤原敦頼(ふじわらのあつより)

従五位上左馬助に任じたが、承安2年(1172年)に出家。
能因に匹敵する「すき者」として知られ、説話も多い。
治承3年(1179年)、右大臣兼実家の歌合に90歳で参加。
その後まもなく没したかと思われる。







百人一首 81♪
        な      かた
ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば
  ありあけ  つき  のこ
ただ有明の 月ぞ残れる (藤原実定 ふじわらのさねさだ)



『 読み方 』
ホトトギス ナキツルカタオ ナガムレバ 
タダアリアケノ ツキゾノコレル

『 現代語訳 』
「ほととぎすが鳴いた方角を眺めると、そこにほととぎすの姿はなく、ただ有明の月だけが残っていた。」

※ほととぎす・・・夏を代表する鳥として和歌によく詠まれた。カッコウ科の渡り鳥で、日本には5月ごろ飛来する。
※鳴きつる方・・・今鳴いた方角。
※残れる・・・残っている。

       あかつき ほととぎす
「暁聞郭公(暁に郭公を聞く)」という題で詠まれた歌。

この題は、暁に起きたらほととぎすが鳴いていた、ということではありません。
ひと晩中待ち続けたところ、やっと暁になってほととぎすのひと声を耳にした、ということです。
平安の昔は、夜明けにほととぎすの声をきくのが風流なこととされていました。
そこで、徹夜してそのひと声を待つということが歌にも詠まれたわけですね。

長い長い夜を待ち明かす・・・。
夏は短夜(みじかよ)といいますが、短時間でも、待つ身にはそれが長く感じられます。
やがて暁になりました。

ギョッ!
と鳴いたので、あわててそちらを見やると、もうほととぎすの姿はありませんでした。あとには、ただ、有明の月がかかっているだけ。
まるでうそのような、一瞬の出来事でした。

蜀山人(しょくさんじん)と号した、江戸時代の狂歌師大田南畝(おおたなんぼ)が、
ほととぎす 鳴きつる方に あきれたる 後徳大寺の 有明の顔
と詠んで、そのうそのような一瞬をからかっています。



『 作者について 』

藤原実定 (1139~1191年)

右大臣公能の子。
祖父の徳大寺左大臣実能と区別して、後徳大寺左大臣と呼ばれた。
母は藤原俊忠の娘。俊成の甥。定家の従兄弟にあたる。
管弦・和歌にすぐれ、蔵書家としても知られた。
家集に『林下集』。
ホッコリタイム 2♪
桜が咲き競うお寺の境内で見つけた、小さな春♪
可愛らしいハートに、ホッコリした昼下がりでした~♪(^^)

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ちょっと休憩 15♪
先週の土曜日に、百人一首が80句目まで到達致しました~♪
早いもので、あと20句となりました。
引き続き、地道に百人一首の勉強を頑張りたいと思います♪(^^)

毎度のセリフとなりましたが、今日は1句目から80句目までの復習に専念しますので百人一首をお休みさせて頂きます。

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百人一首 80♪
なが    こころ し    くろかみ
長からむ 心も知らず 黒髪の
みだ   けさ         おも
乱れて今朝は ものをこそ思へ (待賢門院堀河 たいけんもんいんのほりかわ)



『 読み方 』
ナガカラン ココロモシラズ クロカミノ 
ミダレテケサワ モノオコソオモエ

『 現代語訳 』
「あなたとの逢瀬で黒髪が乱れた今朝、あなたの末長い愛情もどうなるものかわからず、私は心乱れてもの思いに沈んでいます。」

※長からむ心・・・末長く変わらない心。
※乱れて・・・「黒髪が乱れて」と「心乱れて」という2つの意味をかねている。「黒髪のように乱れて」ととる説もある。
※ものをこそ思へ・・・「ものを思ふ(もの思いをする)」の強調された表現。

これも、「久安百首(きゅあんひゃくしゅ)」の歌。

後朝の朝(共寝の翌朝)。
男からの歌にこたえて、返歌をおくったという設定で詠まれています。

この歌のように、言葉と言葉とが微妙に響き合った歌は、いくつかのパートにわけて分析するとわかりやすくなります。
作者の堀河には申し訳ないのですが、こま切れにして内容を追ってみましょう。

まず、第一のパート。
黒髪の 乱れて・・・
この表現で、女が男とすごした夜の様子がわかります。女は男に最後の一線を越えさせてしまった・・・。

つぎに、第二のパート。
乱れて今朝は ものをこそ思へ・・・
それでも、女の心は千々に乱れています。「乱れて」というところが、第一のパートと重なっていることに注意して下さい。
黒髪が「乱れて」に、心が「乱れて」が重なっている。女は自分の乱れた心を、乱れた黒髪に重ねて見ているわけですね。

長からむ心も知らず・・・
男と夢のような夜を過ごしたのに、どうして女は心乱れるのか・・・。
そのカギが、このパートに隠されています。
「長からむ」というのは、永遠の愛ということでしょう。
そんなものがあるのか、と、女は思っているみたいです。
これでよかったのか・・・と。

黒髪の 乱れて・・・
そしてまた、黒髪を見ます。
女のもの思いは、ぐるぐると循環して、ふたたび黒髪に戻ってきました。
心の乱れはとどまるところを知らないといった趣です。



『 作者について 』

待賢門院堀河 (生没年未詳)

源顕仲の娘。
はじめ前斎院令子内親王に仕え、六条と呼ばれた。
のち、待賢門院(崇徳院の母)に仕えて堀河と呼ばれるようになった。
待賢門院の出家と同時にそのあとを慕って尼となる。
院政期歌壇の代表的女流歌人。
家集に『待賢門院堀河集』。



百人一首 79♪
あきかぜ      くも   た  ま
秋風に たなびく雲の 絶え間より
   い   つき  かげ
もれ出づる月の 影のさやけさ (藤原顕輔 ふじわらのあきすけ)



『 読み方 』
アキカゼニ タナビククモノ タエマヨリ 
モレイズルツキノ カゲノサヤケサ

『 現代語訳 』
「秋風に吹かれ、たなびく雲の絶え間から、もれ出る月光が、なんと明るく澄みきっていることよ。」

※たなびく雲・・・横に長くひいている雲。
※影・・・光。
※さやけさ・・・清く澄みきった美しさ。

これは、「久安百首(きゅうあんひゃくしゅ)」と呼ばれるものの中の1首です。

康治2年(1143年)頃、崇徳院が当時有名だった13人の歌人に「百首歌」を提出するように命じました。
完成するまでに時間がかかり、3名の歌人が死去。
そこで新たに3名の歌人を加え、久安6年、やっと完成にこぎつけたのが「久安百首」でした。

秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ

一読してすっと意味がわかります。
あたりまえの情景を、あたりまえに詠んで、きちんと決める。
大した腕前ですね。

雲の絶え間から清澄な月の光がさしました。
しかし、それは一瞬のこと。
月光はすぐにも、たなびく雲によって隠されてしまうかもしれません。
その一瞬の光芒をとらえる。
その後どうなったかは、書かれていないのです。
そこに余情が生まれます。



『 作者について 』

藤原顕輔 (1090~1155年)

歌人、顕季の子。清輔の父。
父の顕季に歌才を認められ、三男ながら家学を受け継いだ。
顕季以来、南北朝時代までつづくこの学統は六条家、あるいは六条藤家(ろくじょうとうけ)と呼ばれる。
『詞花和歌集』の撰者。
家集に『顕輔集』がある。
百人一首 78♪
あはぢしま     ちどり  な こゑ
淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に
   よねざ      すま せきもり
いく夜寝覚めぬ 須磨の関守 (源兼昌 みなもとのかねまさ)



『 読み方 』
アワジシマ カヨーチドリノ ナクコエニ 
イクヨネザメヌ スマノセキモリ

『 現代語訳 』
「淡路島から通ってくる千鳥がもの悲しく鳴く声に、いく夜目を覚ましたことだろうか、この須磨の関守は。」

※淡路島・・・兵庫県に属し、須磨の西南に位置する。歌枕。
※かよふ・・・淡路島から通ってくる。
※千鳥・・・水辺にすむ小形の鳥。夜、澄んだ声で鳴く。和歌では、妻や友を恋い慕って鳴くとされ、冬の景物であった。
※いく夜寝覚めぬ・・・いく夜、目を覚ましたことだろうか。「ぬ」は完了の助動詞。
※須磨の関守・・・「須磨」は神戸市須磨区の南海岸。古くはここに関所があった。「関守」はその番人。

「関路千鳥(せきぢのちどり)/関所のある街道の千鳥」という題で詠まれた歌。
題詠ですから、作者が実際に須磨に行ったわけではありません。
「関所千鳥」という題にあわせて、お話を作るように、歌の世界を作りあげていきます。

舞台は須磨がいい―。

と、作者は思いました。
須磨ならば、光源氏が身を隠したところ。須磨といっただけで、平安時代のだれもが『源氏物語』「須磨」の巻を思い浮かべてくれました。
須磨の巻に「まどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く」と書かれていることも、読者は思い出してくれるかもしれません。さらには、

友千鳥 もろ声に鳴く 暁は ひとり寝覚めの 床(とこ)もたのもし
(たくさんの千鳥が声をそろえて鳴いている暁は、たったひとりで目を覚ましさびしい寝床にいる私も、心丈夫に思われる)

という光源氏の歌も思い出してくれるはず・・・。

現代の我々も、『源氏物語』「須磨」の巻の世界を重ね、光源氏の心境になって、この歌を読んでみるといいですね。



『 作者について 』

源兼昌 (生没年未詳) =12世紀初めの人。

源俊輔の二男。
従五位下皇后官大進に至り、のちに出家したとみられる。
いくつかの歌合に名が見えるが、経歴は未詳。
『金葉和歌集(きんようわかしゅう)』などの勅撰和歌集には、7首入集している。



百人一首 77♪
せ       いは        たきがは
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
     すゑ   あ       おも
われても末に 逢はむとぞ思ふ (崇徳院 すとくいん)



『 読み方 』
セオハヤミ イワニセカルル タキガワノ 
ワレテモスエニ アワントゾオモー

『 現代語訳 』
「川瀬の流れが速いので、岩にせきとめられる急流が、わかれてもやがては落ち合うように、今はあなたと別れても、将来は必ずお逢いしようと思います。」

※瀬をはやみ・・・川瀬の流れがはやいので、。「AをBみ」で、AがBなので、と訳す。
※岩にせかるる・・・岩にせきとめられる。
※滝川の・・・急流のように。
※われても・・・水の流れが分かれる意と、男女が別れる意をかけている。
※末に・・・将来に。

悲劇の人、崇徳天皇の詠んだ恋歌です。
「滝川」は滝ではなくて、急流のこと。
急流が岩にぶちあたると2つにわかれます。
でも、岩を越えるとまた1つになる。
そのように、ぼくと君とは、今は別れてもまた1つになれる。
いや、なってみせる、と・・・。

川の激しい流れは崇徳院の恋心の比喩なのですね。



『 作者について 』

崇徳院 (1119~1164) = 第75代、崇徳天皇

鳥羽天皇の第一皇子。母は待賢門院璋子。
5歳で即位。23歳で退位。
保元の乱で敗北、讃岐(香川県)に流され、同地で悲憤のうちに崩御。
和歌を好み、藤原顕輔に命じて『詞花集』を撰進させた。
百人一首 76♪
    はら こ  い  み
わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの
くもゐ       おき しらなみ
雲居にまがふ 沖つ白波 (藤原忠通 ふじわらのただみち)



『 読み方 』
ワタノハラ コギイデテミレバ ヒサカタノ 
クモイニマゴー オキツシラナミ

『 現代語訳 』
「大海原に船を漕ぎ出して見渡すと、雲と見まがうばかりに沖の白波が立っているよ。」

※わたの原・・・大海原。
※漕ぎ出てて見れば・・・船を漕ぎ出して見渡すと。
※ひさかたの・・・「雲居」の「雲」にかかる枕詞。
※雲居・・・雲。
※まがふ・・・見間違える。
※沖つ白波・・・沖の白波。

宮中の歌合で詠まれた歌。そのときの題は「海上遠望」でした。

船で海上に乗り出すと、はるか沖合いに白波が見える。その白波は白雲と見まがうばかり・・・。波の白と雲の白とが渾然一体となっています。そして、バックには青く大きな空。
まことに、スケールの大きな叙景歌です。




『 作者について 』

藤原忠通 (1097~1164)

父の忠実のあとを継ぎ、長らく摂関の地位にあった。
漢詩・和歌・書に秀で、政治家としても力量を発揮。
保元の乱で弟・頼長を倒し、政界に君臨。
晩年は法性寺に隠棲。
家集に『田多民治集(ただみちしゅう)』がある。



ちょっと休憩 14♪
昨日、百人一首が75句目まで到達致しました~♪

百人一首の勉強をスタートしたのは、昨年10月28日になります。
始めた頃は外国語と同じ位に目や耳に馴染みがなく、会社のTさんと覚えるのに毎日苦労しておりました。

それが不思議なもので、40句あたりを過ぎた頃から変わってきました。
意味を理解して情景をイメージしながら「文字を見て」「何度か口ずさむ」だけで、体にス~ッと入ってくる
ようになったのです~。@@
和歌のテンポ良いリズムは耳にも心地良く、物語を読むように楽しくなってきている今日この頃です♪

ということで、毎度のセリフとなりましたが
今日は1句目~75句目までの復習を致しますので、百人一首はお休みさせて頂きます。(^^)

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百人一首 75♪
ちぎ           つゆ いのち
契りおきし させもが露を 命にて
     ことし  あき
あはれ今年の 秋もいぬめり (藤原基俊 ふじわらのもととし)



『 読み方 』
チギリオキシ サセモガツユオ イノチニテ 
アワレコトシノ アキモイヌメリ

『 現代語訳 』
「お約束下さいました恵みの露のようなあなたのお言葉を、命としてお頼み申し上げておりましたのに、ああ、今年の秋もむなしく過ぎてしまうようでございます。」

※契りおきし・・・約束しておいた。「おき」は、下の「露」の縁語。この約束は「息子のことをよろしく頼む」と、作者が藤原忠通に依頼したことをさす。
※させもが露・・・恵みの露のようなあなたのお言葉。「させも」は蓬(よもぎ)のこと。
「させもが露」だと「蓬の上の露」ということになるのだが、ここは忠通が作者の依頼を受けたときに「なほ頼めしめじが原のさせも草・・・」という歌を引いて快諾したことをさしている。
※命にて・・・命として。唯一の頼みとしてという意味。
※あはれ・・・ああ。
※いぬめり・・・「いぬ」は「往ぬ」と書き、行くという意味。「めり」は推定の助動詞、「~ようだ」などと訳す。

この歌は、詠まれたいきさつが複雑です。

まず、作者。基俊ですね。
彼は自分の息子がかわいくてならなかった。
息子はお坊さんです。光覚(こうかく)といって、奈良の興福寺にいるのですが、この子を僧侶としてエリートコースにのせてやりたかった。
それで、基俊は光覚のことを、権力者の藤原忠通に頼んだわけです。
「今度おこなわれる儀式の大役を、ぜひとも光覚につとめさせてやって下さいませ。」
光覚は、いつもこの大役からもれていたのでした。

基俊の依頼を受けて、忠通は言いました。
「いいよ」と。
ただ、昔ですから、和歌で答えました。

なほ頼め しめじが原の させも草 われ世の中に あらむ限りは
(やはり私を頼みにしていなさい。私がこの世にいる限りは大丈夫ですよ。)

「なお頼め」というところにご注目下さい。
忠通が言いたかったのは、「やはり私を頼みにしていなさい」ということでした。
それを、ちょっとおしゃれに、和歌で答えたわけです。
ただし、この歌は、忠通が作ったわけではありません。
記憶していた他人の歌(『新古今集』では清水の観音が作った歌ということになっています)を引用して答えました。

ところが・・・・・・。

うまくいきませんでした。
息子がまた、儀式の大役からはずれてしまった。
その恨みごとを、基俊は和歌にして、忠通におくりました。

契りおきし「させもが露」を命にて・・・・・・。

あなた約束してくれたじゃありませんか。「させも草」の歌を引いて・・・。
それを私は恵みの露のように思い、命とも思い、今までまっていたのに、ああ・・・・・・と。



『 作者について 』

藤原基俊 (1060~1142)

右大臣藤原俊家の子。
名門の出身ながら官途に恵まれず、従五位上左衛門佐に終わった。
院政期歌壇の指導者的存在として、源俊頼とならび称される。
俊頼の新風に対して、基俊は保守派の代表。
家集に『藤原基俊集』がある。
星野道夫さんの素敵な言葉たち 2♪
大好きな星野さんの写真展開催を待ち望んでいますが、今年はまだのようですね~。
またどこかで開催されたら、見に行きたいと思います♪
ハンカチ持って。(笑)

文才豊かな星野さんの素敵な言葉を、今日も幾つか書き綴らせて頂きま~す♪
心に響きます~。(^^)



「どこにいようと、
すべてのものに平等に同じ時が流れている。
その事実は、考えてみると、
限りなく深遠なことのような気がしてくる。」

「幸福を感じる瞬間とは、ありふれていて、
華々しさのない、たまゆらのようなものだった。」

「人間の持つ哀しみと悠久なる自然。
寄せては返す波の調べに人の心が静まるのは、
私たちの身体のどこかに、
遠い海辺の記憶が残っているからだろうか。」

「森の中に自分の足で踏み入れば、
その湿り気を感じることが出来る。
でも森のまわりを何度回ったところで、
その形しかわからない。」

「風の感触は、
なぜか、移ろいゆく人の一生の不確かさをほのめかす。
思いわずらうな、心のままに進め、
と耳もとでささやくかのように・・・・・。」

「人は生きているかぎり、夢に向かって進んでいく。
夢は完成することはない。
しかし、たとえこころざし半ばにして倒れても、
もしそのときまで全力をつくして走りきったならば、
その人の一生は完結しうるのではないだろうか。」

「寒いことが、人の気持ちを暖めるんだ。
離れていることが、人と人とを近づけるんだ。」

「人と出会い、
その人間を好きになればなるほど、
風景は広がりと深さをもってきます。
やはり世界は無限の広がりを
内包していると思いたいものです。」
朝ぼらけ~♪
意外に多く使われている「朝ぼらけ」。
「朝ぼらけシリーズ」をピックアップしてみました♪

幾つかある、夜明け前を表す言葉について、
以前に目から鱗 「夜明け前」編♪で取り上げております。
ご興味ある方は、どうぞこの機会にチラっとご覧下さいませ♪(^^)



「百人一首 31♪」
あさ     ありあけ つき み
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに
よしの さと  ふ  しらゆき
吉野の里に 降れる白雪 (坂上是則 さかのうえのこれのり)

「百人一首 52♪」
あ        く           し
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら
   うら     あさ
なほ恨めしき 朝ぼらけかな (藤原道信朝臣 ふじわらのみちのぶあそん)

「百人一首 64♪」  
あさ     うぢ  かはぎり
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
           せぜ    あじろぎ
あらはれわたる 瀬々の網代木 (権中納言定頼 ごんちゅうなごんさだより / 藤原定頼 ふじわらのさだより)
百人一首 74♪
       ひと はつせ  やま
うかりける 人を初瀬の 山おろしよ
           いの
はげしかれとは 祈らぬものを (源俊頼朝臣 みなもとのとしよりあそん)



『 読み方 』
ウカリケル ヒトオハツセノ ヤマオロシヨ
ハゲシカレトワ イノラヌモノオ

『 現代語訳 』
「私につれなかった人を、なびいてくれるようにと初瀬の観音にお祈りはしたが、初瀬の山おろしよ、おまえのようにひどくなれとは祈りもしなかったのになあ。」

※うかりける人・・・つれなかった人。こちらが思っても、なびかなかった人のこと。
「うかり」は形容詞「憂し」の連用形に過去の助動詞「けり」の連体形がついたもの。
「憂し」は「思い通りにならず、つらい」とか「つれない」という意味になります。
※初瀬・・・桜井市初瀬町。ここに長谷寺がある。この寺の十一面観音は霊験(れいげん)あらたかといわれ、都から多くの人が足を運んだ。
※霊験あらたか・・・神仏による効験が明らかに表れるさま。神仏が著しく感応するさま。「霊験灼然」(れいげんいやちこ)などとも言う。
※山おろしよ・・・「山おろし」は、山から吹きおろす激しい風。ここは、それに向って呼びかけた形。
※はげしかれ・・・形容詞「はげし」の命令形。風が「はげしくあれ」であると同時に、私に対する冷淡な仕打ちが「はげしくあれ」という意をかねる。
※祈らぬものを・・・祈らないのになあ。「ものを」は逆説。詠嘆の意がこもる。

藤原俊忠の邸で、恋歌10首を詠むことになった時の歌。
題は「祈れども逢はざる恋」
神に祈っても逢うことのできない恋、という意
味です。

複雑な文脈ですね。
意味がとりやすいように、歌を解体してみましょう。
主文脈はこれです。

うかりける人を「はげしかれ」とは祈らぬものを!
(つれなかったあの人のことを、「もっとつれなくなれ」なんて祈らなかったのに!)

これでは、だれに祈ったのか分かりません。
神か、仏か・・・。

初瀬の山おろしよ(長谷寺の山おろしよ)
この表現で、なるほど、この人は都からはるばる奈良の長谷寺まで行ったのだ、とわかります。
そこまでするのだから、この恋はかなわぬ恋なのでしょう。

初瀬の山おろしよ「はげしかれ」とは祈らぬものを!
(初瀬の山おろしよ、「激しく吹け」とは祈っていないぞ!)

吹きすさぶ山おろしの風に、困り果てている作者の姿が浮かびます。
山おろしの風のように、冷たくかたくなな相手の心・・・。
山おろしの風に吹かれ、こごえて切ない自分の心・・・。
そして再び、振り出しに戻ります。

うかりける人を「はげしかれ」とは祈らぬものを!
(観音様に、「彼女がもっと冷たくなれ」なんて祈っていないのに。)

こんな思いをして、風に吹かれて、長谷寺にお参りをしたのに、前よりももっと彼女は冷たくなった。
ねえ、観音様、ひどいしゃありませんか!
霊験あらたかっていうのは、うそですか!
彼女は山おろしの風みたいに、前よりももっと、冷たくなってしまいましたよ・・・。



『 作者について 』

源俊頼朝臣 (1055~1129)

源経信(みなもとのつねのぶ)の三男で、俊恵(しゅんえ)の父。
官位は従四位木工頭に終わったが、院政期の歌壇をリード。題材・用語・表現にわたって、自由で斬新な歌風をひらく。その歌風の一端は、俊成に継承された。
家集に『散木奇歌集』。歌論に『俊頼髄脳』。
百人一首 73♪
たかさご をのへ さくら さ
高砂の 尾上の桜 咲きにけり
とやま かすみ た
外山の霞 立たずもあらなむ (権中納言匡房 ごんちゅうなごんまさふさ/大江匡房 おおえのまさふさ)



『 読み方 』
タカサゴノ オノエノサクラ サキニケリ 
トヤマノカスミ タタズモアラナン

『 現代語訳 』
「遠くの高い山の峰に、桜が咲いたなあ。近くの山の霞よ、どうか立たないでおくれ。」

※高砂の・・・「高砂(たかさご)」は砂が高く積もったところ。すなわち、高い山の意。兵庫県の地名とする説もある。
※尾上・・・「峰(を)の上(うへ)」がつづまった語。山の頂。
※桜・・・山桜のこと。都の桜より開花時期が遅い。
※外山・・・「外山(とやま)」は、人里に近い山。「深山(みやま)・奥山(おくやま)」に対する語。
※立たずもあらなむ・・・立たないでほしい。「なむ」は願望の終助詞で、「~してほしい」などと訳す。

内大臣藤原師通の邸(やしき)で酒宴と歌会が催されたとき、 「遥望山桜」という題で詠まれた歌です
「遥望山桜」は、遥かに山桜を望むということ。
遠山の桜がきれいだ、だから近くの山の霞よ、どうか桜を隠さないでおいてくれよ、というのですね。

「高砂の尾上」と「外山の霞」を対照させたところが、この歌のポイント。
遠景と近景です
この2語が、明るい春景色に、遠近法のような奥行きを与えています。作者が詠もうとしたのは、山桜そのものではなく、うららかな春のパノラマでした。

上の句では「S」の音が利いています。
たかごの おのへのくら きにけり

下の句では「T」の音。
やまのかすみ たたずもあらなむ

とても清澄で、リズミカルな調子です。
こういうリズムで、折り目正しい言葉を使い、壮大な景色を詠み込んだ歌は、 「長(たけ)高し」といって尊重されました。
また、正統な格調の高い歌ということで、「正風体(しょうふうてい)」と呼ぶ人もいます。




『 作者について 』

権中納言匡房=大江匡房 (1041~1111年)

成衡の子。匡衡・赤染衛門の曾孫。
太宰権帥・権中納言・正二位まで昇進、江帥と呼ばれた。
学問の家、大江家の長。
当代第一の詩文家として知られた。
博学多識で著書も多い。
家集に『江帥集』。
百人一首 72♪
おと    たかし はま     なみ
音にきく 高師の浜の あだ波は
      そで
かけじや袖の ぬれもこそすれ (祐子内親王家紀伊 ゆうしないしんのうけのきい)



『 読み方 』
オトニキク タカシノハマノ アダナミワ 
カケジヤソデノ ヌレモコソスレ

『 現代語訳 』
「噂に名高い高師の浜のあだ波は身にかけますまい、袖がぬれるでしょうから。
そのように、浮気で名高いあなたのお言葉は心にかけますまい。
涙で袖がぬれては大変ですから。」

※音にきく・・・うわさにきく。
※高師の浜・・・大阪府堺市浜寺から高石市にいたる海岸。今は埋め立てられているが、昔は景色の美しいところで、歌枕として知られていた。「音にきく、高し」で、「うわさにきく名高い」という意味である。
※あだ波・・・むなしく寄せては返す波。浮気な人をたとえている。
※かけじや・・・「波をかけまい」と「思いをかけまい」との二重の意味で用いられている。
※ぬれもこそすれ・・・ぬれては大変だ。「もこそ」は懸念する気持ちをあらわし、「~ては大変だ」などと訳す。
※「高師」と「高し」、「(波を)かけ」と「(思いを)かけ」が掛詞。
※「浜」「波」「ぬれ」が縁語。 

堀河院主催の艶書合(けそうぶみあわせ)で、藤原俊忠に答えた歌。
「艶書合」は「えんしょあわせ」と読んでもかまいません。
艶書合は一種の恋愛ゲームでした。
歌合(うたあわせ)は歌合なのですが、男の貴族たちと女房たちとを番(つが)え、それぞれのカップルに恋の歌のやりとりをさせるという形式。
もちろん、本物のカップルではありませんから、詠み合った恋歌の内容はフィクションということになります。

紀伊の相手をした俊忠の歌は、

人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ いはまほしけれ
(私はあなたに人知れず思いを寄せています。ですから、有磯の浦風によって波が寄るように、夜になったら忍んで行って、あなたに思いをうちあけたいと思います。)
※「磯」と「思いあり」、「寄る」と「」は掛詞。
※「」「」「寄る」は、縁語。

というものでした。
紀伊の返歌は、俊忠の求愛をぴしゃりとはねつけていることになりますね。

ちなみに、俊忠の年齢は29歳ぐらい。
紀伊は、70歳ぐらいだったそうです。



『 作者について 』

祐子内親王家紀伊 (生没年未詳)

11世紀後半の人。
後朱雀天皇の第一皇女、祐子内親王に仕えた女房。
民部大輔平経方の娘で、母は祐子内親王に仕えた女房小弁かという。
すぐれた歌人として、多くの歌合に参加。
家集に『祐子内親王王家紀伊集』がある。
百人一首 71~80♪
「百人一首 71♪」
ゆふ    かどた いなば
夕されば 門田の稲葉 おとづれて
あし       あきかぜ ふ
芦のまろやに 秋風ぞ吹く (大納言経信 だいなごんつねのぶ / 源経信 みなもとのつねのぶ)

「百人一首 72♪」
おと    たかし はま     なみ
音にきく 高師の浜の あだ波は
      そで
かけじや袖の ぬれもこそすれ (祐子内親王家紀伊 ゆうしないしんのうけのきい)

「百人一首 73♪」
たかさご をのへ さくら さ
高砂の 尾上の桜 咲きにけり
とやま かすみ た
外山の霞 立たずもあらなむ (権中納言匡房 ごんちゅうなごんまさふさ/大江匡房 おおえのまさふさ)

「百人一首 74♪」
       ひと はつせ  やま
うかりける 人を初瀬の 山おろしよ
           いの
はげしかれとは 祈らぬものを (源俊頼朝臣 みなもとのとしよりあそん)

「百人一首 75♪」
ちぎ           つゆ いのち
契りおきし させもが露を 命にて
     ことし  あき
あはれ今年の 秋もいぬめり (藤原基俊 ふじわらのもととし)

「百人一首 76♪」
    はら こ  い  み
わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの
くもゐ       おき しらなみ
雲居にまがふ 沖つ白波 (藤原忠通 ふじわらのただみち)

「百人一首 77♪」
せ       いは        たきがは
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
     すゑ   あ       おも
われても末に 逢はむとぞ思ふ (崇徳院 すとくいん)

「百人一首 78♪」
あはぢしま     ちどり  な こゑ
淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に
   よねざ      すま せきもり
いく夜寝覚めぬ 須磨の関守 (源兼昌 みなもとのかねまさ)

「百人一首 79♪」
あきかぜ      くも   た  ま
秋風に たなびく雲の 絶え間より
   い   つき  かげ
もれ出づる月の 影のさやけさ (藤原顕輔 ふじわらのあきすけ)

「百人一首 80♪」
なが    こころ し    くろかみ
長からむ 心も知らず 黒髪の
みだ   けさ         おも
乱れて今朝は ものをこそ思へ (待賢門院堀河 たいけんもんいんのほりかわ)
百人一首 71♪
ゆふ    かどた いなば
夕されば 門田の稲葉 おとづれて
あし       あきかぜ ふ
芦のまろやに 秋風ぞ吹く (大納言経信 だいなごんつねのぶ / 源経信 みなもとのつねのぶ)



『 読み方 』
ユーサレバ カドタノイナバ オトズレテ 
アシノマロヤニ アキカゼゾフク

『 現代語訳 』
「夕方になると、門前の田の稲葉をそよそよと鳴らし、芦ぶきの田舎家に、秋風が吹き渡ってくるよ。」

※夕されば・・・夕方になると。「さる」は「去る」ではなく、「時間が到来する」という意味。「夕されば」は、和歌でよく用いられた表現。
※門田・・・家の前の田。地味(ちみ)の肥えた豊かな田で、収穫はその家の私用とする。「山田(山にある田)」に対する語。
※おとづれて・・・音をたてて訪ねてきて。「おとづる」には「訪問する」という意味もあるが、原義は「音をたてる」。
※芦のまろや・・・芦で屋根をふいた田舎家。

たのいへのあきかぜ
「田家秋風(田舎家の秋風)」という題で詠まれた歌。


京都郊外、梅津の里。
そこに、作者の友人、源師賢の別荘がありました。この歌は、師賢の別荘に、歌人仲間が集まった時の題詠です。
「門田」とか、「稲葉」とか、「芦のまろや」とか・・・。
田園のにおいのする言葉がいっぱい並んでいますね。

叙景歌ですが、とても新鮮です。
視覚だけで「田家秋風」を歌っているわけではありません。
田舎家に秋風が渡ってきます。その風は、まず稲葉をそよそよと音をたてる。聴覚です。
作者は聴覚によって、まず秋風をとらえようとしています。
ついで、その風が、田舎家に吹いてきます。これは肌に感じる感覚。触覚ですね。

視覚と聴覚と触覚 ― 。
その3つで、立体的に「田家秋風」をつかまえる詠み方が、題詠であるこの歌に、いかにも実景といった真実味を与えています。



『 作者について 』

大納言経信 (1016~1097)=源経信。

正二位大納言まで昇進。
博学多才で、漢詩・和歌・管弦といずれの道にもすぐれ、公任とならんで「三船の才」と謳われた。
藤原通俊の『後拾遺集』に対し、『難後拾遺』を書いて批判したことは有名。
家集に『経信集』がある。
ちょっと休憩 13♪
昨日に、百人一首が70句目まで到達しました~!
あと、30句。
そして、今日は「ちょっと休憩 13♪」。
今月は3月。(これは、チョットこじつけですね。^^;)
クマコが好きな3繋がり成立で、めでたしめでたし♪(^^)
というわけで、今日は1句目~70句目までの復習をしますので百人一首はお休みしまーす。



毎度ながらの、余談です~。
4月24日に、百人一首は100句目に到達する予定でおります。
終わりが見えてくると、なんとも淋しいものですね。(TT)
もう少しだけ、クマコのお馬鹿にお付き合い(またはスルー)して頂けますと幸いです。(^^)

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奥の細道 (松尾芭蕉)♪
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。
もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住替る代ぞひなの家面八句を庵の柱に懸置。



『 現代語訳 』
月日は百代という長い時間を旅していく旅人のようなものであり、その過ぎ去って行く一年一年もまた旅人なのだ。
船頭のように舟の上に生涯を浮かべ、馬子のように馬の轡(くつわ)を引いて老いていく者は日々旅の中にいるのであり、旅を住まいとするのだ。
西行、能因など、昔も旅の途上で亡くなった人は多い。
私もいくつの頃だったか、吹き流れていくちぎれ雲に誘われ漂泊の旅への思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は川のほとりのあばら家に戻りその蜘蛛の古巣をはらい一旦落ち着いていたのだが、しだいに年も暮れ春になり、霞のかかった空をながめていると、ふと白河の関を越してみたくなり、わけもなく人をそわそわさせるという「そぞろ神」に憑かれたように心がさわぎ、道祖神の手招きにあって何も手につかない有様となり、股引の破れを繕い、笠の緒をつけかえ、三里のつぼに灸をすえるそばから、松島の月がまず心にかかり、住み馴れた深川の庵は人に譲り、旅立ちまでは門人「杉風(さんぷう)」の別宅に移り、戸口が草で覆われたこのみすぼらしい深川の宿も、私にかわって新しい住人が住み、綺麗な雛人形が飾られるようなはなやかな家になるのだろう。と発句を詠み、面八句を庵の柱に書き残すのだった。



これは中国、唐の時代詩人、李白の『春夜宴桃李園序』の「夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客」
(天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客なり)
を意識して作られたものです。
春夜桃李園に宴するの序 (李白)♪
春夜桃李園に宴するの序
「 春夜宴桃李園序 」 李白


夫れ天地は萬物の逆旅(げきりょ)にして
夫天地者萬物之逆旅 「いったい天地はあらゆるものを迎え入れる旅の宿のようなもの。」
※逆旅・・・げきりょ。旅人を泊める旅館。

光陰は百代(はくたい)の過客(かかく)なり
光陰者百代之過客 「時間の流れは、永遠の旅人のようなものである。」
※光陰・・・歳月。時間。
※百代・・・永遠の月日。
※過客・・・旅人。

而して浮生は夢の若し
而浮生若夢 「しかし人生ははかなく、夢のように過ぎ去っていく。」
※浮生・・・はかない人生。

歡を爲すこと幾何(いくばく)ぞ
而浮生若夢爲歡幾何 「楽しいことも、長くは続かない。」
※歡を爲(な)す・・・喜びをなす。

古人燭を秉りて夜遊ぶ
古人秉燭夜遊 「昔の人が燭に火を灯して夜中まで遊んだのは、」

良(まこと)に以(ゆえ)有る也
良有以也 「実に理由があることなのだ。」

況んや陽春の我を召すに煙景を以てし
況陽春召我以煙景 「ましてこのうららかな春の日、霞に煙る景色が私を招いている。」
※陽春・・・うららかな春。
※煙景・・・霞に煙る春の景色。

大塊の我に假すに文章を以てするをや
大塊假我以文章 「そして造物主は私に文章を書く才能を授けてくれた。」
※大塊・・・造物主。

桃李の芳園(ほうえん)に會(かい)し
會桃李之芳園 「桃や李の実ったかぐわしい香りのする園に集まり、」
※桃李之芳園・・・桃や李の香る園。

天倫(てんりん)の樂事(がくじ)を序す  
序天倫之樂事 「兄弟そろって楽しい宴を開こう。」
※天倫の樂事・・・親しい一族の人たちの楽しい宴。
※天倫・・・自然な人々の順序。兄弟など。

群季(ぐんき)の俊秀(しゅんしゅう)は
群季俊秀 
皆 惠連(けいれん)たり
皆爲惠連 「弟たちは晋の謝惠連のように優れた才能を持つ者ばかりだ。」
※群季・・・たくさんの弟たち。
※俊秀・・・才能に溢れている。優れている。
※恵連・・・晋の謝惠連。謝霊運の従弟。従兄の謝霊運に誉められたため、すぐれた弟の意。

吾人(ごじん)の詠歌(えいか)は 
吾人詠歌 
獨り康樂(こうらく)に慚(は)づ
獨慚康樂 「私独り、歌を吟じても謝霊運に及ばないのだが。」
※吾人・・・ごじん。わたくし。
※康樂・・・こうらく。謝霊運。祖父の爵位である康楽公を継いだため。

幽賞(ゆうしょう)未だ已(や)まざるに
幽賞未已 「静かに褒め称える声が止まぬうちに、」
※幽賞・・・静かに誉めたたえる

高談(こうだん)轉(うた)た清し
高談轉清 「高尚な議論はいよいよ清らかに深まっていく。」
※高談・・・高尚な議論。高らかな声。

瓊筵(けいえん)を開いて以て華に坐し 
開瓊筵以坐華 
羽觴(うしょう)を飛ばして月に醉う
飛羽觴而醉月 「玉の簾を敷いて花咲く樹木の下に座り、羽飾りのついた杯を交わして月に酔う。」
※瓊筵・・・玉のムシロ=立派な宴席
※羽觴・・・うしょう。スズメの形に作って翼などをつけた杯。
※羽觴を飛ばす・・・さかんに酒を酌み交わす。

佳作有らずんば
不有佳作 「優れた作品に仕立てなければ、」
何ぞ雅懷(がかい)を伸べん
 
何伸雅懷 「この風雅な気持ちはとてもあらわせない。」
※雅懐・・・がかい。風流な思い。

如(も)し詩成らずんば  
如詩不成 「もし詩が出来ないなら」

罰は金谷(きんこく)の酒數(しゅすう)に依らん 
罰依金谷酒數 「晋の石崇の故事にのっとり、罰として酒三杯を飲むことにしよう。」
※金谷・・・晋の石崇の故事。詩のできない者に酒三杯を罰として飲ませた。




変化する「うきよ」♪
「うきよ」という言葉は元々「憂(う)き世」、つまり「つらく苦しいこの世」という意味でした。
しかし、漢語の「浮生・浮世(ふせい)」という語が広まると、「浮き世」と書くことが多くなり、
「うきよ」は単に世の中のことを意味するようになりました。

また、「浮世絵」や「浮世草子」の「浮世(うきよ)」は「当世風の、現代的な」という意味です。
漢語の「浮世」は李白(りはく)の「春夜宴桃李園序(しゅんやたうりのゑんにえんするのじよ)」の一節「光陰者百代之過客(くわういんはひやくだいのくわかくなり)、而浮生若夢(しかしてふせいはゆめのごとし)」によって、広く知られることになった言葉で、はかないこの世という意味です。

平安末期から中世にかけての時代には、世の中をまさに「憂き世」ととらえ、浄土を希求する厭世(えんせい)思想が世を覆っていました。しかしその後、近世に入ると、どうせはかない「浮き世」なら楽しまないのは損であると考える享楽(きょうらく)主義、現実主義が広がっていき、「うきよ」も享楽的な語義へと変化したのです。
百人一首 70♪
        やど た  い
さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば
    おな   あき ゆふぐれ
いづくも同じ 秋の夕暮 (良暹法師 りょうぜんほうし)



『 読み方 』
サビシサニ ヤドオタチイデテ ナガムレバ 
イズクモオナジ アキノユーグレ

『 現代語訳 』
「あまりのさびしさに、庵を出てもの思いにふけりながらあたりを眺めると、どこも同じさびしい秋の夕暮れであるよ。」

※さびしさに・・・さびしさのために。「に」は理由・原因を示す格助詞。
※宿・・・自分の住んでいる庵(いおり)。
※ながむれば・・・「ながむ」は、もの思いにふけってじっと眺める。現在の「眺める」はただ眺望するといった意だが、古語の「ながむ」には悲しみの心が加わる。
※いづく・・・「いづこ」の古形。奈良時代は「いづく」としかいわず、平安以後はどちらも使った。「いづこ」とする本文もあるが、『後拾遺和歌集』に従って「いづく」とした。

「秋の夕暮」を詠んだ歌。
大袈裟な技巧を使わず、平明に読みくだした1首です。

良暹はさびしい草庵暮らし。世を捨てて出家した身にも、さびしさをこらえきれないことがあったのですね。
意味もなく外に出てみると、いずこも同じ・・・。
外は一面の秋景色で、さびしい暮色につつまれていました。

「いづくも同じ」がこの歌のポイント。
どこも同じようにさびしく見えるのは、自分の心がさびしいからで、作者は自分の内側のさびしさを見つめている・・・。
そういったのは、『百人一首』現存最古の注釈書として知られる『応永抄(おうえいしょう)』でした。
すぐれた解釈として、おおかたの賛同を得ています。



『 作者について 』

良暹法師 (生没年未詳)

天台宗の僧で、祇園の別当だったというが、家系や経歴は未詳。
康平8年(1065年)ごろ、67,8歳で没したとみられる。
歌才を認められ、上流階級の歌会にもしばしば招かれた。
にごらずに、「りょうせん」と読む説もある。

百人一首 69♪
あらし ふ みむろ やま      ば
嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は
たつた かは にしき
竜田の川の 錦なりけり (能因法師 のういんほうし)



『 読み方 』
アラシフク ミムロノヤマノ モミジバワ 
タツタノカワノ ニシキナリケリ

『 現代語訳 』
「山風が吹いている三室山の紅葉(が吹き散らされて)で、竜田川の水面は錦のように絢爛たる美しさだ。」

※嵐・・・山から吹きおろす嵐。
※三室の山・・・奈良県生駒郡の神南備山(かんなびやま)。
※竜田の川・・・三室山の東を流れる。上流を生駒川といい、下流は大和川に合流。
※錦なりけり・・・「錦」は、五色の糸で華麗な模様を織り出した厚地の織物。「けり」は詠嘆の助動詞。

永承4年(1049年)の内裏歌合(だいりうたあわせ)に出した作
晴れの場にふさわしい華やかな趣向の歌です。
このときの題は「紅葉(もみぢ)」。
吹きおろす秋の風が三室山の紅葉を散らしたが、落ち葉はやがて川面に浮かび、竜田川の錦としてよみがえったという趣向です。

能因は、かなりの「すき者」だったようです。(現代の意味とは異なります。)
風流の道に心を寄せ、命がけで打ち込むことを「すき」という。
「好く」の名詞形であるところから「好き」と書くが、後に当て字で「数寄」と書くこともあります。
能因の友人の孫に大江公仲(おおえのきんなか)という人がおりました。
その公仲に能因は「好き給へ。好きぬれば歌詠みぞ」と教えています。

他にも能因の「すき者」ぶりを伝える説話は山ほどあり、1番有名なものに白河の関の話があります。

都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関
「春霞がたつのとともに京都を出発したけれど、東北の白河の関についてみると、もう秋風が吹いているよ。」

東北に用事がないのに、この歌が出来てしまい・・・
能因は暫く家に引きこもり、東北に行ったことにしてこの歌を披露したと伝えられています。



『 作者について 』

能因法師 (988~?)

橘忠望の子。
俗名、橘永愷(たちばなのながやす)。
文章生となったが、26歳頃に出家。諸国を行脚して、歌作りに励んだ。和歌を藤原長能に学んだが、これが歌道における師弟関係の最初の例だといわれる。
歌学書に『能因歌枕』、家集に『能因法師集』。
百人一首 68♪
こころ          よ
心にも あらでうき世に ながらへば
こひ       よは  つき
恋しかるべき 夜半の月かな (三条院 さんじょういん)



『 読み方 』
ココロニモ アラデウキヨニ ナガラエバ
コイシカルベキ ヨワノツキカナ

『 現代語訳 』
「これから先、心ならずもこの憂き世に生きながらえていったならば、そのときには、きっと恋しく思い出されるにちがいないこの美しい夜半の月であるよ。」

※心にもあらで・・・不本意ながら。
※うき世・・・つらい現世(げんせ)。
※ながらへば・・・もし生きながらえたならば。
※恋しかるべき・・・恋しく思い出されるにちがいない。

三条天皇が宮中で月を眺めて詠んだ歌。

長和4年(1015年)12月10日すぎのこと。
三条天皇は、中宮妍子(ちゅうぐうけんし)と共に、宮中で、冬の冴えわたる月を眺めていました。
そのときの心境を言葉にして、中宮に示したのがこの歌でした。

心にも あらでうき世に ながらへば
(不本意にも、この憂き世で生きながらえたならば)

「不本意にも生きながらえる」というのは、もう死んでしまいたいということを意味します。
そう思うほど、三条天皇はこの世に絶望していました。
当時、天皇は目をわずらって失明寸前。もともと身体が弱かったうえに、政治的にも難しい状況にありました。

恋しかるべき 夜半の月かな
(あとになってこの夜半の月が恋しくなるだろうね)

悲しい術懐(じゅつかい)です。精神的にも、肉体的にも、限界かと思われる今。
それが、あとになると、きっとなつかしく思い出されるに違いないというのです。
眼病が、この美しい月を見えなくしてしまうかもしれません。
政治的に、今よりもっと、苦しい立場に追いやられるかもしれない・・・。
天皇にとって、もはや明日という日はありませんでした。
1ヵ月後、三条天皇は退位します。
中宮妍子の返歌は、残念ながら伝えられていません。



『 作者について 』

三条院 (976~1017)
第67代、三条天皇。
冷泉天皇の第二皇子で、母は藤原兼家の娘超子。
寛和2年(986年)立太子、寛弘8年(1011年)即位。
藤原道長の圧迫によって、長和5年(1016年)、在位5年で譲位した。
翌年出家し、42歳で崩御。





百人一首 67♪
はる よ  ゆめ        たまくら
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に
      た     な   を
かひなく立たむ 名こそ惜しけれ (周防内侍 すおうのないし)



『 読み方 』
ハルノヨノ ユメバカリナル タマクラニ 
カイナクタタン ナコソオシケレ

『 現代語訳 』
「春の短夜の夢、そのようにはかない手枕のために、なんの甲斐もなく浮き名が立つのは口惜しいことですよ。」

※春の夜の・・・春の夜は夏と同じく、短くて明けやすいものとされている。
※夢ばかりなる・・・夢のようにはかない。「ばかり」は程度をあらわす助詞で、「~ぐらい」などと訳す。「なる」は断定の助動詞「なり」の連体形。直訳は「夢ぐらいである」。
※手枕・・・腕を枕にすること。
※かひなく・・・なんの甲斐もなく。「かひなく」の「かひな」に、「腕(かひな)」を隠し詠んでいる。
※立たなむ名こそ惜しけれ・・・立つ浮き名が惜しい。「む」は婉曲(えんきょく)の助動詞。「名」は評判・うわさ。

男のたわむれを軽くいなした歌。
月の美しい夜。春でした。関白藤原教通(かんぱくふじわらののりみち)の邸(やしき)に人々が集まり、夜明かしでおしゃべりを楽しんでいます。
ちょっとくたびれたのでしょうか。周防内侍がものに寄りかかって、
「枕がほしいわ」
と小声でつぶやきました。
その言葉を聞いていたのが、大納言藤原忠家。彼は、御簾(みす)の下から自分の腕(かひな)をそっとさし入れ、
「これを枕に・・・」
と言いました。
そのあと、間髪をいれずに詠んだのがこの歌です。

かひなく立たむ 名こそ惜しけれ

「そんな『かいな』で、甲斐もなく噂が立ったのでは、口惜しくてしょうがありませんわ。」
即興の機知が冴えわたった歌ですね。



『 作者について 』

周防内侍 (生没年未詳)

周防守平棟仲の娘かという。
本名、仲子。
後冷泉・後三条・白河・堀河の4朝に仕えた。
夫や子供についての所伝はない。
多くの歌合に参加し、11世紀終わりから12世紀初めにかけての歌壇で活躍。
家集に『周防内侍集』がある。


プロフィール

クマコ

Author:クマコ
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