fc2ブログ
2013/02
≪01  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28   03≫
百人一首 62♪
よ       とり  そらね
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
  あふさか  せき
よに逢坂の 関はゆるさじ (清少納言 せいしょうなごん)



『 読み方 』
ヨオコメテ トリノソラネワ ハカルトモ 
ヨニオーサカノ セキワユルサジ

『 現代語訳 』
「夜の明けないうちに、鶏(にわとり)の鳴きまねで人をだましたとしても、函谷関(かんこくかん)ならいざ知らず、この逢坂の関は決して許しますまいよ。」

※夜をこめて・・・夜の明けないうちに。
※鳥の空音・・・鶏の鳴きまね。戦国時代の中国で、斉(せい)の孟嘗君(もうしょうくん)が函谷関を越えようとしたとき、鶏の鳴きまねをして関所を開かせ、無事に通過したという故事をふまえる。この故事は『史記(しき)』に見える。
※はかる・・・だます。
※よに・・・決して。下の「じ」と呼応している。「じ」は打消推量の助動詞、「~まい」などと訳す。
※逢坂の関・・・近江国(滋賀県)と山城国(京都府)の境にある関所。「逢坂」は、男女の契りを意味する「逢う」との掛詞。逢坂の関を通過することは許すまい、の意に、あなたと契りを結ぶことは許すまい、の意が重ねられていることになる。

清少納言が藤原行成(ふじわらのゆきなり)におくった歌。
恋歌ではなく、社交の歌です。
「鳥の空音」がむずかしですね。

中国の戦国時代、斉(せい)の国には田文(でんぶん)という政治家がいました。
孟嘗君と号したこの人は、食客数千人をかかえ、その名声は天下に鳴り響いていたといわれます。
孟嘗君が秦(しん)に行き、その国の王様に殺されかけたときのこと。斉に逃げ帰る途中に、函谷関という関所がありました。
しかし、その扉は一番鶏が鳴くまで開かないきまりになっています。
孟嘗君が困っていると、食客の中に、鶏の鳴きまねのうまい人がいました。
「私がひとつ鳴いてごらんにいれましょう!」
すると、不思議・・・。
まわりの鶏が、まだ夜明けでもないのに、つられて鳴き出したではありませんか。
孟嘗君は、おかげで関所を突破し、秦の国を無事に抜け出すことが出来ました。
以上は『史記(しき)』巻第七十五「孟嘗君列伝」に見える「鶏鳴(けいめい)」の故事です。
清少納言はこの故事をふまえ、「鳥の空音ははかるとも」といっているのですね。

清少納言と藤原行成は男女の関係ではありませんでしたが、夫婦漫才のように仲が良かったようです。
ある晩も二人で話をしていたところ、夜ふけに「明日は帝の物忌でこもらねばならぬから」と言って、行成が清少納言の部屋から帰りました。
その翌朝、行成は「昨夜は鶏の声にせかされて、せっかくの夜が台無しになった。」と、後朝(きぬぎぬ)のような文(ふみ)を清少納言に送りました。
それで清少納言は「何が鶏の声よ。あんな夜中に鶏が鳴くもんですか。函谷関じゃあるまいし。あなた、うそ鳴きをして私から逃げたんだね」と、漢文の故事をふまえて返事をしました。
打てば響くような清少納言の返事が面白くて、行成はまた「私が越えたいのは、函谷関じゃなくて、逢坂の関だよ」と、君との一線を越えたいという歌を送りました。
そこで清少納言は、きっぱりと「決してこの関は越えさせません」と返事をしたのが、この歌になります。




『 作者について 』

清少納言 (生没年未詳)
康保年間(964~968)に生まれ、万寿年間(1024~1028)に没したと推定。
清原元輔の娘。
橘則光と結婚。
中宮定子に仕え、その体験をもとに『枕草子』を執筆。
晩年は不幸だったというが、詳細は未詳。
家集に『清少納言集』。






スポンサーサイト



プロフィール

クマコ

Author:クマコ
自然風景が大好きです♪

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
リンク