fc2ブログ
2013/02
≪01  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28   03≫
雲竜渓谷♪
013_3329.jpg

013_3104.jpg

013_3183-2.jpg

013_3799.jpg
栃木県 日光市 雲竜渓谷(うんりゅうけいこく)

013_3047.jpg
全体像は、こんな感じの所です。



地図上では、日光東照宮の上方に位置する雲竜渓谷。
車両通行止めのゲートから氷柱地帯までは、緩やかな林道を往路2時間程+帰路1時間半程の徒歩を要します。
(氷柱地帯では、「アイゼン」が必要。)

昨年に氷柱地帯入り口で、撮影開始直後にカメラを水没させた苦~い思い出の地。
帰り道の足の重いことといったら、言葉に出来ないものでしたよん。(TT)
今年は用心に用心を重ね、ピッケルをお供に行って参りました~。

美しい氷の造形のオンパレードに、夢中で撮り続けること9時間半。
気づくと時計の針は夕方の5時半を指していて(3枚目の写真の通り)、中間地点でタイムオーバーとなりました。
(TT)(TT)
いつになったら、ゴールまで辿り着けるのだろう。 (TT)(TT)(TT)
来年はヘルメットも持って、もっと先まで探検してきたいと思います♪(^^)

※今月末まで所用があり雲竜渓谷の掲載は来月以降の予定でしたが、思ったよりも早く用事が片付いてくれましたので掲載させて頂きした~。

スポンサーサイト



百人一首 61~70♪
「百人一首 61♪」
         なら みやこ  やへざくら
いにしへの 奈良の都の 八重桜
  ここのへ
けふ九重に にほひぬるかな (伊勢大輔 いせのたいふ)

「百人一首 62♪」
よ       とり  そらね
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
  あふさか  せき
よに逢坂の 関はゆるさじ (清少納言 せいしょうなごん)


「百人一首 63♪」
いま     おも た
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
ひと
人づてならで いふよしもがな (左京大夫道雅 さきょうのだいふみちまさ / 藤原道雅 ふじわらのみちまさ)

「百人一首 64♪」
あさ     うぢ  かはぎり
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
           せぜ    あじろぎ
あらはれわたる 瀬々の網代木 (権中納言定頼 ごんちゅうなごんさだより / 藤原定頼 ふじわらのさだより)

「百人一首 65♪」
うら          そで
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを
こひ く      な    を
恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ (相模 さがみ)

「百人一首 66♪」
              おも  やまざくら
もろともに あはれと思へ 山桜
はな        し  ひと
花よりほかに 知る人もなし (前大僧正行尊 さきのだいそうじょうぎょうそん)

「百人一首 67♪」
はる よ  ゆめ        たまくら
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に
      た     な   を
かひなく立たむ 名こそ惜しけれ (周防内侍 すおうのないし)

「百人一首 68♪」
こころ          よ
心にも あらでうき世に ながらへば
こひ       よは  つき
恋しかるべき 夜半の月かな (三条院 さんじょういん)

「百人一首 69♪」
あらし ふ みむろ やま      ば
嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は
たつた かは にしき
竜田の川の 錦なりけり (能因法師 のういんほうし)

「百人一首 70♪」
        やど た  い
さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば
    おな   あき ゆふぐれ
いづくも同じ 秋の夕暮 (良暹法師 りょうぜんほうし)
百人一首 61♪
         なら みやこ  やへざくら
いにしへの 奈良の都の 八重桜
  ここのへ
けふ九重に にほひぬるかな (伊勢大輔 いせのたいふ)



『 読み方 』
イニシエノ ナラノミヤコノ ヤエザクラ 
キョーココノエニ ニオイヌルカナ

『 現代語訳 』
「いにしえの奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、つねよりも色美しく咲きほこっていることです。」

※いにしへの奈良の都・・・かつて繁栄した奈良の都。奈良は、元明天皇から光仁天皇まで、7代70余年の都であった。
※八重桜・・・山桜の変種で、花が大きく、花弁が重なっている。他の桜より咲くのが少し遅い。11世紀初頭の京都では珍しい品種だった。
※けふ・・・今日。「いにしへ」に対していう。「京」の意を響かせると見る説もある。
※九重・・・宮中。中国の王城(おうじょう)には九重(きゅうちょう)の門をめぐらせたという故事から出た語。「八重」に対していう。
※にほひぬるかな・・・「にほふ」は、色美しく咲く。

吉田兼好(よしだけんこう)の『徒然草(つれづれぐさ)』に、「八重桜は奈良の都にのみありけるを、このごろぞ世に多くなりはべるなり」とあります。
『徒然草』は鎌倉末期に書かれた随筆です。
伊勢大輔の時代は平安中期ですから、八重桜は珍しいものだったのですね。

その珍しい八重桜が、毎年宮中に献上されていました。
それを受けとる時に詠んだのが、この歌です。

いにしへ―けふ
八重―九重


という対の技法(「奈良―京」を入れてもいいかもしれません。)
奈(七) ― 八 ― 九
という数字の連鎖。

いにしへ 奈良
と、3度繰り返される「の」が醸し出す悠揚たる調べ。

☆この歌が詠まれた背景
奈良から僧が八重桜を持ってきた贈呈式に、一条天皇・中宮彰子(藤原道長の娘)・藤原道長・紫式部。
他にも中宮彰子の女房達も沢山いました。
最初は紫式部が八重桜の受け取り役になっていましたが、晴れがましいことを好まぬ紫式部が「今年は新参の者に・・・」と言い、新入りの伊勢大輔にこの大役を譲りました。
道長に「黙って受け取っちゃダメだよ。歌を詠みなさい。」と言われ、とっさに詠んだ歌です。

当意即妙の技巧を駆使しながら、古都の桜と王城の繁栄を同時にたたえるこの歌を伊勢大輔が詠んだとき、その場にいた貴族たちは、
「万人感歎(ばんにんかんたん)、宮中鼓動す」
と『袋草子』(平安末期の歌学書)には書かれています。



『 作者について 』

伊勢大輔 (生没年未詳)=11世紀前半の人

大中臣能宣の孫。輔親の娘。
中宮彰子に使え、紫式部、和泉式部らと親交があった。
のち、高階成順と結婚し、康資王母らを生む。
夫の死後出家し、山里に隠棲した。
家集に『伊勢大輔集』がある。
プロフィール

クマコ

Author:クマコ
自然風景が大好きです♪

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
リンク