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百人一首 100♪
        ふる のきば
ももしきや 古き軒端の しのぶにも
           むかし
なほあまりある 昔なりけり (順徳院 じゅんとくいん)



『 読み方 』
モモシキヤ フルキノキバノ シノブニモ 
ナオアマリアル ムカシナリケリ

『 現代語訳 』
「宮中の古い軒端に生えた忍ぶ草を見るにつけても、しのんでもしのびきれないほど、昔のさかんな御代(みよ)が思われるよ。」

※ももしきや・・・「ももしき」は、宮中。「や」は詠嘆の間投助詞。
※古き軒端・・・皇居の古びた軒端。
※しのぶにも・・・「しのぶ」は「忍ぶ草」と「(昔を)偲ぶ」との掛詞。「忍ぶ草」は、家の軒先や木の幹に生えるシダ植物。「忍ぶ草が生える」というのは、邸宅の荒廃を象徴する表現。
※なほあまりある・・・やはりしのんでもあまりある。
※昔なりけり・・・「昔」は、宮中に忍ぶ草など生えない王朝の盛時をいう。

順徳院は、後鳥羽院の第三皇子です。承久の乱では、お父さんの参謀役をつとめ、事件の後に佐渡に流されています。
この歌は、承久の乱が起こる5年前に詠まれました。

ももしきや 古き軒端の 忍ぶ(草)

掛詞の一方の意味を出すと、なんだか俳句のようになりますね。
武家がやりたい放題なので、宮中には忍ぶ草が生えるありさまです。
皇室の権威はまるつぶれ・・・。

しのぶにも、あほあまりある昔なりけり。

順徳院は、皇室が盛んだった時代をしのびます。

しのんでもしのんでもなほあまりある「昔」とは、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)年間、天皇がみずから政務をとった醍醐天皇や村上天皇の時代のことを言っているのでしょう。
ところが最近、定家は天智天皇の時代を考えていた、という説が脚光を浴びています。

天智天皇・持統天皇の時代から、後鳥羽院・順徳院の時代まで600年。
定家が選んだ100人の歌人をつなぐと、それがそのまま王朝文化の系譜になります。
順徳院が天智天皇の「昔」を思えば、『百人一首』は首尾が一貫するわけです。

連綿としてつづいた王朝文化の歴史は、承久の乱によって幕を閉じました。
順徳院の見た軒端の忍ぶ草は、定家にとって、古きよき時代の王朝文化そのものだったかもしれない。



『 作者について 』

順徳院 (1197~1242年)

第84代天皇。
後鳥羽院の第三皇子。
後鳥羽院の期待を受けて、即位。
のち後鳥羽院とともに倒幕をはかって敗れ、佐渡に配流。在島22年で、46歳の生涯を終えた。
歌学書に『八雲御抄(やくもみしょう)』、家集に『順徳院御集』がある。







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百人一首 99♪
ひと    ひと うら
人もをし 人も恨めし あぢきなく
よ おも          おも み
世を思ふゆゑに もの思ふ身は (後鳥羽院 ごとばいん)



『 読み方 』
ヒトモオシ ヒトモウラメシ アジキナク 
ヨオオモーユエニ モノオモーミワ

『 現代語訳 』
「人がいとしくも、恨めしく思われる。この世をつまらないと思うがゆえに、いろいろともの思いをする自分には。」

※人もをし・・・「人」は「身(自分)」に対する他人。「愛(を)し」は、いとしい。
※あぢきなく・・・つまらなく。
※もの思ふ身は・・・倒置で、初句・二句につづく。

数奇な生涯をおくった後鳥羽院の術懐歌。
承久の乱の9年前、院が33歳のときに詠んだ歌です。

あぢきなく」という言葉が主題です。このキーワードをはさんで、前半に「人をし人恨めし」という対の表現、後半に「世を思ふゆえにもの思ふ身は」という反復表現が置かれていることに注意して下さい。

後鳥羽院は「あぢきなく(つまらんなあ・・・)」と言っています。
何がつならないのか・・・・・。

あぢ着なく 世を思ふゆゑに (こんな世の中つまらないと思うから)
あぢきなく もの思ふ身は   (つまらないもの思いをする私は)

世の中もつまらないし、もの思いもつまらない。
つまらないことづくしです。

この「あぢきなく」は「世を思ふ」にかかるとするのが通説ですが、「もの思ふ」にかけてもいいのではないでしょうか。
この世がつまらないのは、他人のことが信じられないからですが、もの思いをするのは、そういう他人を信じたいからなのでしょう。
ですから、

人も愛し 人も恨めし!

自分には他人がいとおしい時と、他人が恨めしい時がある。
全国土を統治し、万民の父であるべき帝王にとって、そういう心のありようは恥ずかしいことでした。
つまらないといえば、そういう自分が1番つまらない。
「あぢきなし」という言葉が、最後には自分に返ってきているわけですね。



『 作者について 』

後鳥羽院 (1180~1239年)

高倉天皇の第四皇子。第82代天皇。
4歳で即位、19歳で譲位。
承久の乱で隠岐に配流。在島19年、60歳で崩御。歴代帝王中、屈指の歌人で、『新古今集』の編纂を親裁。
歌学書に『後鳥羽院御口伝(ごとばいんごくでん)』、家集に『後鳥羽院御集』。
百人一首 98♪
かぜ         をがは   ゆふぐ
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
      なつ
みそぎぞ夏の しるしなりける (藤原家隆 ふじわらのいえたか)



『 読み方 』
カゼソヨグ ナラノオガワノ ユーグレワ 
ミソギゾナツノ シルシナリケル

『 現代語訳 』
「風がそよそよと楢(なら)の葉に吹いている。このならの小川の夕暮れは、(もう秋が来たように涼しいから、)六月祓(みなづきはらえ)のみそぎだけが夏であることのあかしなのであるよ。」

※風そよぐ・・・風がそよそよと音をさせて吹く。
※ならの小川・・・上賀茂神社(京都市北区)の近くを流れる御手洗川(みたらしがわ)。「御手洗川」とは、参詣する人が手を洗い口をすすぐ川ということ。「なら」は「楢(ブナ科の落葉高木)」との掛詞。
※みそぎ・・・罪やけがれを祓いのぞくために、河原で水をかけて身を清めること。この「みそぎ」は「六月祓/夏越しの祓」をさす。陰暦6月の最終日に行われた神事で、半年間の罪とけがれを祓い落とすという。
※夏のしるし・・・夏であることの証拠。

定家とならび称された、藤原家隆の歌。

前関白藤原道家の娘が入内することになりました。
天皇家に嫁に行く時は、嫁入り道具として、屏風を調達するのがならわしでした。
その屏風には、1年12ヶ月の風物が描かれます。これが屏風絵です。
その屏風絵に合わせて歌を詠んでいく。これが、屏風歌。


道家の娘の屏風歌は、当代きっての歌人たちに、制作が依頼されました。家隆が詠んだ36首の中で、採用されたものは7首。
そのうちの1つがこの歌です。

屏風絵は「みそぎ(六月祓)」でした。どんな絵柄だったかは、屏風が残っていないので分かりませんが、御手洗川のほとりで風にゆれる楢の木が描かれていたのかもしれません。
家隆はその絵に合わせ、本歌取りをして、この歌を仕上げました。




『 作者について 』

藤原家隆 (1158~1237年)

権中納言光隆の子。
若いころ寂連の養子となり、俊成に和歌を学ぶ。定家と並び称され、和歌所の寄人となる。
『新古今集』の選者の1人。後鳥羽院の信頼あつく、院の隠岐配流後も音信を絶やさなかった。
家集に『壬二集』。



百人一首 97♪
こ  ひと        うら   ゆふ
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
や  もしほ   み
焼くや藻塩の 身もこがれつつ (藤原定家 ふじわらのさだいえ)



『 読み方 』
コヌヒトオ マツオノウラノ ユーナギニ 
ヤクヤモシオノ ミモコガレツツ

『 現代語訳 』
「いくら待っても来ない人を待つ私は、夕なぎのころ松帆(まつほ)の浦で焼く藻塩のように、身もこがれつつ待ち続けています。」

※まつほの浦・・・淡路島の北端、兵庫県津名郡淡路町松帆の海岸。「松帆」の「松」に「待つ」が掛けられている。
※夕なぎ・・・風がなく、波が穏やかに静まった状態。
※焼くや藻塩の・・・焼く藻塩のように。「や」は語調を整え、感動をあらわす間投助詞。「藻塩」は、海藻からとる塩。当時は、海水を注いだ海藻(藻塩草)を日に干し、それを焼いて水にとかし、煮詰めて塩をとったという。「まつほの」から「藻塩の」までが序詞。
※身もこがれつつ・・・「こがれ」は思いこがれる。これに、藻塩が焼けこげるの意を掛ける。

宮中の歌合で読んだ題詠の歌。
女性の立場で、恋人を待つ気持ちをうたっています。実質的な内容を取り出せば、身も蓋もありません。

来ぬ人を待つ・・・・・身もこがれつつ
ひっくり返すと、そのつまらなさに興ざめするほどです。
「身もこがれつつ来ぬ人を待つ」。
何やら、安ものの演歌に似ていますね。
この素材を、珠玉のようにするのが、中に入れた「まつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩」という部分です。

来ぬ人を待つと読めば、恋人を待って身をよじる女の姿が浮かぶのですが、
・・・・・まつほの浦の 夕なぎに
までいくと、我々の心は、いつしか夕暮れの海辺にさそわれて、意味もなくさびしい気分になります。
さらには、
焼くや藻塩の 身もこがれつつ
で、意味不明な海辺の情景が、実は女のこがれた心であったということを知らされます。
女の心は、塩を焼く火のように燃えている。
立ち上がる一筋の煙には、妖しさが漂います。

我々は、言葉の力で、作者にあちこちと引きずり回されているわけですね。
主題はあくまでも「身をこがれつつ来ぬ人を待つ」なのですが、読んだ後、それだけでは済まされない何かが残る。
これが、木の皮を純白の和紙に変えるような、定家の芸でした。




『 作者について 』

藤原定家 (1162~1241年)

藤原俊成の子。
名は「さだいえ」だが、慣用で「ていか」と読む。
正二位権中納言まで昇進。
御子左家の中心人物として活躍。
『新古今和歌集』の選者の1人。
家集に『拾遺愚草(しゅういぐそう)』、日記に『明月記』、歌論に『近代秀歌』などがある。

百人一首 96♪
はな    あらし には  ゆき
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
              み
ふりゆくものは わが身なりけり (藤原公経 ふじわらのきんつね)



『 読み方 』
ハナサソー アラシノニワノ ユキナラデ 
フリユクモノワ ワガミナリケリ

『 現代語訳 』
「花を散らす嵐の庭、そこに降りゆくものは雪ではなくて、本当に古(ふ)りゆくものは、じつにわが身であったのっだなあ。」

※花さそふ・・・桜の花を誘って散らす。「さそふ」の主語は、嵐。
※嵐の庭・・・嵐の吹く庭。
※雪ならで・・・雪ではなくて。この「雪」は、散る花びらを雪に見立てた表現。
※ふりゆく・・・「ふり」は「降(ふ)り」と「古(ふ)り」との掛詞。「古りゆく」は、老いてゆく、ということ。

落花を見ながら、自分の老いを嘆いた歌。この歌を詠んだのは、鎌倉初期の政治家、藤原公経です。

「降り」と「古り」の掛詞を軸に、暗転する演出がまことにみごと。
こんなからくりです。

降りゆくものは 花さそふ嵐の庭の雪・・・ならで
ここまでは絢爛豪華な、おごりの春の景色です。
つよい風が庭の桜を散らせます。
降りゆくものは、花吹雪・・・かと思ったが、

古りゆくものは わが身なりけり
ちがいました。
古りゆくものは、自分であった。
私は老いた。
あの花吹雪も、夢のまた夢・・・・・。



『 作者について 』

藤原公経 (1171年~1244年)

内大臣実宗の子。定家の義弟。
鎌倉幕府と強く連携し、承久の乱の後、京都宮廷で確固たる地位をかためる。
従一位太政大臣。
西園寺家の祖。
定家の御子左家を庇護したことでも知られる。






プロフィール

クマコ

Author:クマコ
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